西新町風土記VOL.13

2020年10月9日金曜日

西新の歴史


 Vol.13(西新と近郊の歴史 その2)



西新町警察署の足跡






明治期の西新町警察署は当時の早良郡(現在の中央区の一部・城南区・早良区および西区の一部)を管轄していました。また、事案等が発生した場合、立ち入り制限等の処置が必要な衛生業務・消防・災害等についても管理監督していました。現在、早良警察署は城南区・早良区を管轄しています。衛生業務は保健所、消防は消防・救急・災害となっています。



旧西消防署
昭和18年、西福岡消防署が旧西新町2丁目244に発足、職員25名消防車2台で旧西福岡警察署の所轄管内を担当しました。西福岡消防署は姪浜派出所及び黒門派出所を次々開設し、昭和21年に西新町出張所としました。昭和22、年警察管理から独立し、西新町出張所を西消防署に昇格させ、昭和44年に曙に移設、さらに昭和61年西署の名称を早良署に改名し、昭和63年に現曙2丁目-9から早良区百道浜1丁目901に新築移転しました。



西新病院の足跡




昭和12年旧保健所法が制定され、福岡市立西新病院が早良公会堂の建物(現西新5丁目)を活用して開業した。昭和13年の住宅地図に福岡市立西新病院が乗っています。昭和35年に下田池の半分を埋め立て同地に建て替えられました。(中央の写真)。昭和56年に成人病センター(福岡医師会)になり、平成30年福岡大学西新病院に代わりました。(上右の写真)


福岡刑務所跡地と福岡拘置所





九州大学が京都帝国大学福岡医科大学として開校する以前、西新町が候補の一つだったという。以前の赤痢等のトラウマ等により300円の大金を払って断ったとの話がある。そして、「何か公共施設を」として誘致できたのが福岡監獄だったという。(西新小学校100年記念誌)

現在の県立ももちパレス・早良区役所・市民センター・藤崎バスターミナルは以前福岡刑務所でした。明治16年以降須崎町に福岡監獄署として受刑者を収容していたが敷地も狭く老朽化のため早良郡西新町大字藤崎に移転を決定。須崎監獄の囚人を使役して百道松原を切り開き6年の歳月をかけて大正2年レンガ造りの獄舎が完成ました.須崎より藤崎に移転してきました。大正11年福岡刑務所に改称し、終戦後昭和22年~昭和23年ころの混乱期には、3,000名を超える受刑者がいました。施設の中には矯正施設として木工・印刷・金属・久留米がすりなどの工場があり出所後の職業訓練をしていました。処刑場は現早良警察署・西福岡税務署の所あたりでした。処刑された遺体で引き取り手のない遺体は西新墓地に埋葬されました。百道地蔵も建てられた。昭和40年(1965年)に 福岡刑務所が宇美町に移転しましたが、土手町拘置支所が福岡刑務所拘置監と合併し、福岡拘置所として現在地に移転しました。


西新公園(オレンジ通り公園)(旧早良郡役所跡)


西新1丁目8にあるオレンジ通り公園はかつて早良郡役所の跡地でオレンジ通り側から小


さな坂を上って行く。この坂道が当時からある郡役所への入り口です。かつては石の門柱が上がりきった所に建っていた。明治29年郡制度が施行され、当初は、新屋敷にあったが、明治31年に移転してきた。この郡制度も大正10年をもって廃止され、この地もいろいろな出先機関が配置されました。






百道松原の面影



江戸時代に黒田長政によって作られた百道松原。開発によって松原は観ることは出来ないが、その名残がほんの一部であるが西新から百道の間に見ることができる。特に百道小学校では、その保存に心がけている。松の木が倒れたりすると新しい苗木を植えています。

「筑前国続風土記 二十早良郡上」
むかしは荒戸の西より百道原の末、早良川(室見川)の遠干潟の際まで、平沙漠漠として広く、松原なくして不毛の地也しかは、長政公松を植えて松原にすへしとて、元和四年(1618年)正月二十五日家臣の菅和泉、宮崎綾部、小堀久左衛門に命じて、其事を司とらしめ、福岡、博多、姪浜の町人に迎て、毎家一軒より高さ四、五尺なる小松各一本充植えさせられける。此の松年を遂て成長しけれは、十年の後は広き松林と成りて、幾万株と言事をしらす。今は喬木多くして、古より名を得て久しき生の松原にも増り、千はやふる神代に植えし箱崎の千代の松原にひとし(以下略)



Vol.14(西新・高取・百道校区夏祭り 2020年11月中旬掲載予定に続く)