新シリーズ 西新の歴史 vol.1(百道海岸と西新町遺跡)

2022年9月1日木曜日

西新の歴史

西新の歴史シリーズ

 「西新の歴史」編纂(へんさん)は「西新町風土記」として、2019年11月にVol.1から2021年1月のVol.16まで当ブログで発表してきました。そして新たなシリーズを立上げ「西新の歴史」として、本日Vol.1を発表します。西新町風土記の内容と重なりますが、歴史の観点・表現を替えたりの加筆修正を行っています。

 執筆は前シリーズと同様山崎 剛氏(西新1丁目3区自治会長・西新校区自治協議会副会長 2022年9月現在)です。

 なお、西新町風土記Vol.1~Vol.16は当ブログで一番後ろにあるカテゴリー項の「西新の歴史」を開くと見ることができます。写真の解像度が悪く見にくいですが。ご容赦ください。 

                      ブログ編集担当 安田



Vol.1 百道海岸と西新町遺跡

西新町は江戸時代に百道海岸の稜線上に生まれた町ですが、今回は西新町が生まれる以前の百道海岸に焦点をあて、紹介します

 西新の明治通りを東に向くと南北が下がっていて馬の背状になっていることに気づかれると思います。百道海岸はその先を荒津山にして、北に博多湾、南に草香江入江のある海岸砂丘でした。

下図は明治17年に上野就賢(71歳)が描いた奈良時代の草香江図です。

「草香江の入り江に求食(あさ)る葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友無(ともな)しにして」・・・「草香江の入江に餌を求める葦辺の鶴のように、ああ、たずたずしい(※心細い)ことです。友が側にいないのは」と、大宰府にいたころによく見た鶴を思い出しながら、同じく大宰府でいつも側にいてくれた満誓がいまは側に居ない心もとなさを詠っています。大伴旅人(おほとも)が筑紫の沙弥満誓(さみまんせい)に返答として贈った歌です。

この歌を図に現わしたのがこの下図です。


  *明治時代に描かれたので明治通りは有りませんが、唐津街道(赤線)・樋井川・七隈川・薦川・黒門川・太閤道・菊池道・元寇防塁の線(点線)が薄く描かれています。また地名も書かれています。図の下側が博多湾です。

西新町遺跡は、こういった地形である百道海岸にありました。


弥生期の百道原 砂丘の遺跡(西新町遺跡)

  
土地分類基本調査  福岡市総合図書館
※二つの図は上が博多湾です。




昭和55年~56年修猷館高校改修工事に伴い遺跡調査が行われました。


 上の写真は昭和59年(1984年)に発行された百道原の地質図です。百道原は海岸砂丘だったことがわかります。黄色いSdは砂地です。江戸期以前の百道原はこのような砂丘地帯でした。西新町遺跡が砂丘の遺跡と呼ばれる所以です。この砂丘の一番高い稜線一帯(赤い線)が明治通りにあたり、藤崎までの間に遺跡が多く発掘されました。また、Sd(砂丘)とPd(平野)の接際部が商店街通りにあたります。
西新町遺跡は、朝鮮半島から渡ってきた人々の暮らしが主だったようです。

ウイキペディア 西新町遺跡より引用



ウイキペディア 西新町遺跡より引用

ウイキペディア 西新町遺跡より引用


日本で最古の「作り付け竈(かまど)を持った竪穴住居」が多く発掘され、この「作り付け竈を持った竪穴住居」は朝鮮半島で多く見られ、朝鮮半島との交流が盛んであったことがわかります。

囲炉裏形式





作り付け竈

 竪穴住居は、当初、中央に囲炉裏でした。しかし中図のような「作り付け竈」ができ、容易に高度な作業が出来るようになりました。「作り付け竈」により、鋳型を使った器物を色々作ることができるようになり、先進技術があったことがうかがわれます。


明治通り発掘調査状況




ゴホウラ貝は南西諸島で採れる貝であり、広く交流があったことがうかがわれます。


ゴホウラ貝の腕輪をした弥生人



鉄器  左:飯倉D遺跡 中:西新町遺跡 右:比恵遺跡群


ガラストンボ玉


鋳 型


藤崎遺跡出土の丹塗(にぬり)研磨土


 西新町遺跡は弥生期の遺跡としては珍しく漁村としての遺跡です。西新町遺跡からこの百道原砂丘は朝鮮半島および南西諸島、近畿地方との交流が盛んな国際港だったことがわかります。

(西新町遺跡は「九州歴史資料館及び福岡市博物館」に保存されています。)




発掘された漁具(石錘:せきすい)


朝鮮半島系土器 (修猷館校内出土)





福岡市博物館に展示されている出土品


Vol.2に続く