元(げん)は西暦1271年から1368年の間に中国を統治しました。
「元寇(げんこう)」という呼称は徳川光圀が編纂を開始した「大日本史」が最初の用例です。江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていました。以前は「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」と言われました 。
第1回元寇(文永の役)は、日本軍の対上陸戦と百道・赤坂での陸上戦です。
第2回元寇(弘安の役)は博多湾、玄界灘、平戸沖での海上戦です。
現在において、特に「文永の役」で
〇 博多に上陸したか?(博多の町は焼け、日本軍は水城まで引いた)
〇 筥崎宮は焼けたか?(筥崎宮の文書では、文永の役で焼けたとある)
〇 何故、元軍は1日で引き上げたか?
上記3項目がいろいろと語られています。
竹崎季長の「蒙古襲来絵詞(えことば)」を解説します。 どうぞ、皆さんなりに私見をもっていただき「蒙古襲来の戦跡」を楽しんでください。
(ここにあげる資料はウキペディア「元寇」から抜粋しています。)
繰り返しますが、元寇は文永の役(1274年10月)と弘安の役(1281年)の2度ありました。
〇 文永の役 対馬・壱岐に侵略、博多には上陸出来ず、百道浜に上陸、鳥飼潟で戦闘 。
〇 弘安の役 元(げん)東路軍は防塁があったため上陸できず、江南軍と合わせ平戸高島で台風に遭遇 。
元の日本攻略
『元史高麗伝』によると当初より元には次の3つの案が検討されました。
1 日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き、国書により属国にする。
(1268年から1272年まで使節を派遣。日本は全く受け付けず。)
2 まず南宋を攻略し、服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。(これが弘安の役となる。)
3 高麗軍を使って東路より日本を攻略する。この案では兵力不足が懸念された。
『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由 する東路からの日本侵攻が決定されたとされる。(これが文永の役となる。)
文永の役
〇 元軍
1274年10月3日、900艘の軍船でその構成は、大型戦艦の千料舟300艘、上陸用快速 、船艇の軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘
兵員数は約5万人
●対馬へ侵攻 10月5日、元軍は小茂田浜に襲来
●壱岐へ侵攻 10月14日壱岐の西側に上陸
●博多へ侵攻 10月20日早朝博多へ上陸できずに百道浜へ上陸
〇 日本軍
●1271年北条時宗は鎮西(九州地方と解釈する)に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じた。
●1272年異国警固番役を設置。元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護 および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた 。
●1274年筑後の神代良忠は筑後川を神代浮橋で通行の便を図り、南九州の諸軍 を速やかに博多に動員した。九州の御家人とその家人を含め5万人の兵力が博多に集まった。
●元に対抗し筥崎・息の浜に集結、元軍の上陸を阻止。
上野就賢が明治17年に描いた奈良時代の草ヶ江絵図に元寇の戦い
以下の5枚の絵は上の①~⑤に対応しています。
①蒙古兵を討ち取って帰還する手勢と赤坂で遭遇する竹崎季長
②退却する蒙古兵に弓を射る三井資長(季長姉聟)
③季長を救援するため駆けつけた白石通泰(みちやす)の軍勢
④馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵
⑤麁原山(そはらやま)に陣を敷く元軍
元は10月20日早朝、百道原(ももちはら)に上陸、元と日本軍の戦闘は赤坂で夕方まで続き、翌21日朝には引き上げました。
『高麗史』
高麗軍は元軍諸軍と共に協力して日本軍と終日、激戦を展開しました。ところが、元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられました。やがて、日が暮れたのを機に、戦闘を中止しました。
元帥クドゥン曰(いわ)く「孫氏の兵法『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」
※『小敵の堅は、大敵の擒なり』(小敵のけんは大敵のとりこなり)
つまり、戦いにおいて、相手が自分より強いことが分かっていても、つい強がって虚勢を張りたくなることがありますが、それでは勝利は見込めません。まずは自分の実力を見極めることが最も大切であると孫氏は言ってます。
鳥飼6丁目にある元寇遺品発掘碑 。年号が1281年と弘安の役になっている。
神代の浮橋 久留米市山川神代3丁目10-25付近(堤防沿い)
高取1丁目にあった弓田神社
祖原山にある元寇戦跡
弘安の役
1281年元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~57,000人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人軍船3,500艘、3軍の合計、約140,000~157,000人および軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航しました。
東路軍と江南軍は6月15日までに壱岐で合流し両軍で大宰府を攻める計画を立てていました。
東露軍
5月3日、東征都元帥忻都・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥金功方慶率いる高麗軍約10,000人(実数 9,960人)の東路軍900艘が、合浦)を出航。
5月21日、東路軍は、対馬の世界村大明浦に上陸。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受けました。
5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
東露軍は江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定しました。
6月6日、博多湾沿岸一帯に防塁が築かれており上陸を断念した東路軍は 志賀島に上陸し、占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。
築造は国ごとに区域を定め、大隅国の石築地賦役文書に拠れば、武家領や公家・寺社領を問わずに田1反あたり1寸の割合で石築地役が賦課されたという。
防塁は20㎞にわたって築かれており、後に博多は「石城」と呼ばれました。「石城町」はその名を今に伝えています。
6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対 抗するなどして奮戦しました。しかし、日本軍が勝利し、東路軍は敗戦。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐へと 後退し、江南軍の到着を待つことにしました。
志賀島の海戦
6月29日 日本軍は壱岐の東路軍に対して数万の軍勢で総攻撃を開始しました。
7月2日 日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始、東路軍と激戦が展開されました。
東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した知らせに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動しました。
一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐を目指さず、平戸島を目指した(日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と
合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていた)。
6月下旬 慶元・定海等から出航した江南軍主力は7昼夜かけて平戸島と鷹島に到着しました。
7月中旬-7月27日 東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了しました。
御厨(みくりあ)の海戦の様子(松浦市沖)
7月30日夜半 台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被(こうむ)った。
日本に向けて出航した元軍は鷹島の戦いで壊滅し、 戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じました。
Vol.2 蒙古襲来(元寇)終り
Vol.3は西新界隈の歴史散歩道を予定しています。