新シリーズ西新の歴史 Vol.4 西新町の人と文化(1)

2023年3月8日水曜日

西新の歴史

 亀井塾

福岡の文教はここから始まります。

亀井昭陽(しょうよう)は寛政13年(1801年)、今川橋の西側新地が開発された同地に私邸を構え家塾「古序翼」(百道社)を開きました。

(現在の明治通り「新今川橋」の



西側にあるガストと英進館一帯であろうと推察します。)

* 下図にある亀井昱(いく)太郎は昭陽の字名です。




亀井塾は当初父亀井南冥(なんめい)が唐人町で開きます。




黄色円内は西学問所(甘棠館)です。福岡藩は天明4年(1784年)に東学問所(修猷館)と同時にこの二校を開校しました。
    西学問所は中央区唐人3丁目2番付近にありました。

※以下ウイキペディアより抜粋
亀井南冥(なんめい)は姪浜村の村医亀井聴因の長男として生まれる。幼少より父のもとで学問に励み、肥前蓮池(はすいけ)の黄檗(おうばく)僧大潮元皓に師事し、永富独嘯庵の門下に移る。永富は山脇東洋の高弟で、山県周南に学んだ人物である。よって、南冥は儒学者としては蘐園学派(古文辞学)に属し、医学では山脇東洋の流れを汲むことになる。帰郷後は父と共に博多唐人町に開業する傍らで宝暦12年(1762年)には私塾を開き、多くの門人を集めた。一方で、宝暦・明和期にはたびたび長崎を訪問して時代の新風に触れている。安永7年(1778年)、福岡藩主黒田治之は南冥を儒医として採用し、天明4年(1784年)には治之の遺言(治之は1781年8月に急死している)で、南冥は新設された二つの学問所の一方である甘棠館(かんとうかん)の祭酒(学長)に就任する。同じく1784年(天明4年)、有名な志賀島の金印(倭奴国王印)が発見される。この発見に対し南冥は素早く『後漢書』東夷伝を引用して金印の由来を説明、次いで『金印弁』を著して金印についての研究を行った。もう一方の学問所である修猷館の学長に就任していた竹田定良(朱子学者)も『金印議』を著したが、内容は南冥の説明の域を大きく出ないもので、結果として南冥の名を高めた。
その後、寛政2年(1790年)に寛政異学の禁が出され、幕府の昌平坂学問所で朱子学以外の学問が禁止されると、各藩にも影響が出て、蘐園学派に属する南冥の立場は危うくなった。修猷館派の攻撃を受けて寛政4年(1792年)ついに失脚し、南冥は甘棠館祭酒を解任のうえ、蟄居禁足処分となる。寛政10年(1798年)には甘棠館が焼失し、それにともない甘棠館廃止。生徒は全て竹田定良の修猷館に編入となる。失脚と学校の消滅に南冥は失意に沈むこととなるが、やがて息子の昭陽を中心に私塾として亀井塾が再開され、南冥もそこで指導にあたった。南冥・昭陽父子の下には九州にとどまらず日本各地から弟子が訪れ、秋月藩の原古處等多くの優れた人材が育った。
大宰府政庁跡にある石碑にある亀井南冥の碑文が藩の逆鱗に触れたと言われている。
碑文は寛政元年(1789年)に作成された。



亀井昭陽
亀井南冥の長男として生まれる。若くして父の親友である徳山藩の役藍泉の塾に入り、帰国した年に『成国治要』を著し治国策を論じた。南冥とともに「政事」と「学問」の一致を説き、学問における政治的実践を重んじる。寛政4年(1792年)、朱子学を正学とし古文辞学などの古学を規制する寛政異学の禁の余波が福岡藩にも及び、南冥が藩校甘棠館の学長を罷免されたことを受けて家督を継ぎ、わずか20歳にして福岡藩の藩儒となる。その後、亀門学を西海では右に出るものなしと云われる程に発展させた。
寛政10年(1798年)、唐人町の商家から発した大火により甘棠館校舎が焼失したため甘棠館は廃校となり、免官となる。その後は城代組平士として勤めながら、江戸で南冥著の『論語語由』の開板に従事し、また自身も経学研究に没頭し『周易僣考』、『毛詩考』、『論語語由述志』等、多数の著述を残した。一方で、私塾として亀井塾を開き、広瀬淡窓、広瀬旭荘らを育てた。さらに亀井塾生には亀井暘洲(昭陽の息子)に学んだ滝田柴城、頭山満、高場乱(興志塾を開く)等がいる。また暘洲の子紀十郎は西新小学校初代校長となる。
藩は塾生の亀井塾での宿泊を禁じていたため、他藩等からの塾生(広瀬淡窓、広瀬旭荘等)
は西新町の商人の家に身をおいた。
*高場乱:20歳の時に身分性別を問わず入門者を歓迎していた亀井塾に入り、「亀門の三女傑」「亀井四天王」と呼ばれる。
没後、父亀井南冥と同じく浄満寺に葬られる。

※西海とは中世時代での九州地方を指します。

中央区地行2丁目3-3の浄満寺にある記念碑


その他の私塾

折衷塾:福岡藩の西新生まれの幕末の蘭学者の瀧田柴城の塾で頭山満(とうやま みつる)(戦前のアジア主義の大立者 後述)、金子賢太郎(明治憲法の制作、日露戦争の講和のアメリカでの下交渉で活躍)、栗野慎一郎(明治の外交で条約改正などに活躍)らを育てました。

高尚堂:塾長坂牧周太郎、字を伯望といい号を百道といった。天保4年5月5日生。
  幼い時、中村北海、亀井暘洲に師事し苦学多年安政4年西新(現ブリリア付近)に私塾高尚堂を開き学生に教えていた。


慶応2年私塾を閉じ藩校修猷館の先生となり、維新後は小学校・中学校の教員となり教鞭をとった。多くの青年子弟を育てた。明治42年77歳にて没した。
門人、師の高風を仰慕って百道松林に墓碑を建てた。上の写真は福岡市早良区百道1-18-15 西新墓地内にある墓碑。

この他、江戸期後期の西新町の志ある者は「不狭舎」(福岡市中央区今川2丁目8-20 :正木昌陽(修猷館の教導)の塾)に学びました。

頭山満:日本の国家主義者、大アジア主義者

下の写真は西新公民館の前に立つ頭山満の楠木。



1878年に板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、孫文の中国での革命運動への支援や韓国併合などを推進した。


西新小学校:明治6年麁原村と西新町に3校の小学校が開校されたが、時の「竹槍騒動」で壊され、よく明治7年にこの3校を紅葉小学校として統合し、明治9年に西新小学校に改称しました。

※こぼれ話
 この頃の授業料は1戸1人4銭でした。一応義務教育であるがその義務とは親の責務として位置づけられたものでした。就学年は8年間であり、初等科4年高等科4年に分けられていました。明治14年に小学校の教育は初等科3年・中等科3年・高等科2年となり小学校唱歌の「蛍の光」「君が世」が創られました。

西新小学校の正門


西新小学校の校章

校章の五星は旭日章を表しています。現在の警察記章と同じです。明治の教育制度が始まり、当時の福岡市の郡部の小学校も採用しています。(例えば原小学校や姪浜小学校などです。)

昭和26年(1951年) 西新小学校から高取小学校が分立しました。高学年生は机と椅子を持って、転入しました(元高取小学校教諭中村先生の話)。1年生~5年生までの児童800名と職員20名が移動し現在地に開校しました。当時、校区では1戸当たり200円、児童がいる家庭は250円を拠出(この頃の先生の初任給6,500円)して教材や設備費にあてたそうです。校名の由来は校区住民から募集し、「南西新」「城西」「紅葉」「高取」等の名称が寄せられ「高取」小学校に決定しました。

昭和29年 (1954年)4月1日に百道小学校は、西新小学校百道分校として創設され、翌昭和30年(1955年) 4月1日付けで開校しました。当時は児童数768名、学級数14師数22名の規模でした。開校当時は福岡刑務所北側松林の中にポツンと校舎が建ち、周辺は家も少なく海岸から潮騒が聞こえるほど静かなものだったそうです。学校ではこの環境を利用し、屋外学習に取り組み電柱等の廃材を払い下げてもらい、方形・円形の様々な屋外教室を松林の中に作ったそうです。

西川虎次郎: 1867年9月28日(慶応3年)~1944年8月18日(昭和19年)
日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。西新町新地で生まれ、西新小学校一期生です。戦前の西新町出身のヒーローであり、当時の子どもたちのあこがれでした。西新小学校高等科を卒業し、私塾で学んだ後、西新小学校の訓導(教員)をした後、18歳で陸軍士官学校に入学しました。その後日清戦争(大尉の時、大湖口の戦いで3日3晩敵に包囲された中、しばしば反撃し敵を撃退、味方の損害は負傷者1名であったとして勲5等叙勲)。日露戦争(中佐の時参謀として奉天会戦に参戦し敵の意表をつく作戦を立案し叙勲)等を経て、1917年(大正6年)8月、陸軍中将となり、陸軍歩兵学校長を経て、1918年(大正7年)7月、第13師団長になりシベリア出兵で従軍。次いで第1師団長に就任。大正12年予備役となりました。昭和元年~昭和17年西新小学校後援会長 昭和元年 福岡少年団(ボーイスカウト)
を創設し、初代理事長になりました。

(博多のうわさ 昭和45年9月1日発行)によると
*(前略)紅葉八幡宮の遷宮祭の時だったろうか西新が生んだ県内の有位階勲が最高位の西川虎次郎将軍が陸軍の正装で馬上豊かに勲一等の大授、功二級の金鵄勲章その他を胸にして八幡宮の祭礼の列中にあったのを今も眼前に思い出す。(後略)
           吉原 勝 元九州女子大・西南学院高校講師

Vol.4西新町の人と文化(1) 終り

次回は西新町の人と文化(2)修猷館高校と西南大学の歴史を掲載します。