西新町風土記VOL.10

2020年7月12日日曜日

西新の歴史




Vol.10(樋井川七隈川に架かる橋


樋井川と七隈川に架かる橋

川水をたっぷりと湛えている樋井川の流れに身を任せている鴨



樋井川は何度も川底の掘削・護岸の拡張工事で大きな川に変身しました。



江戸後期の今川橋(福岡県立図書館 博多古図大田資料338号福岡城下図より)






 今川橋は旧唐津街道で樋井川に架かる橋です。樋井川は草香江(大濠のお堀になる前の姿)に流入していたが、黒田長政公が福浜での築城に際しその流れを別府付近から経路を変えて百道原へ、そして博多湾へとしました。当初は田島川と呼んでいましたが、更に新川(七隈川)が出来、新川と交わる所から下流を今川と称してそれに架かる橋を今川橋と呼ぶようになりました。
せんだん土橋(碑は鳥飼側にある)は城南線の城西橋が出来るとその役目を終え、再架されませんでした。明治の雄「金子堅太郎」を語るに、このせんだん土橋が出てきます。
「樋井川に沿って、現在の今川橋の少し上流に大きな栴檀の木があり土橋があった。その「せんだん土橋」の辺りにチンチク壁が編まれた家があった。生誕の地である。」
 カレイ、スズキ、コノシロ、ハゼ、カニ、ウナギを獲っている人を見かける。




 上今川橋の下に見える暗渠は、旧上今川橋通りを通る水路にかぶせたものです。この水路は昭和28年の豪雨災害で溢れました。周りの住居は浸水しました。明治通りにある新今川橋は明治時代に架けられました。西側は北筑軌道、東側は電車で、それぞれ停留場は「今川橋」でした。新今川橋を徒歩で渡り乗り換えました。電車が、姪浜まで伸びても停留場は「今川橋」のままでした。それで、橋の名前である「新今川橋」を「今川橋」と勘違いしている人も多かった。




 城西橋は城南線電車が通っていました。左奥に見える暗渠は七隈川です。早良区、城南区、中央区の3区の分岐になっています。








七隈川と橋





 竜王橋が架かる七隈川は、長政公が樋井川の整備のため、塩焼浜(現鳥飼6丁目一帯)を埋め立て、1746年頃に新川(七隈川)として整備した川です。上部左図は「新川筋の龍王の松」として描かれていますが、松の下にある祠が龍王社です。更に奥には、麁原山が描かれています。上図は「龍王社の写真」です。現在の龍王社に松は有りませんが、福岡市の保存樹「イチョウ」が有ります。竜王橋は龍王社の川上側に架かっています。




 上部の橋は一の橋の上流にあるが名前が書かれていない。(無名橋)①は川の越流時に住宅地流れこまないように止水板を設置するもので橋の東西左右にある。また土手にある穴②は道路の雨水を川へ排出する。③は増水時に②を塞ぐハンドルです。







下竜王橋と上竜王橋です。上竜王橋は旧国鉄の鉄橋跡です。鳥飼7丁目付
近の旧町名は竜王町です。


百道海水浴場跡




 大正12年百道海水浴場が開かれ、当時の花形レジャーでした。昭和50年に閉鎖になりました。現在は8月15日に西新の盆行事(送り火)が行われています。

 大正末にはクジラを形どった巨大な海上場所滑り台と海の上にコの字に張り出した桟橋兼遊歩道が名物となり海水浴場関係の商売は当時の花形レジャー産業となり、西新の繁栄は海水浴場に負うところが大きいといわれている。昭和30年代のピーク時には一日5万人を超える人でがあり各地の標識を付けた観光バスが連日20~30台松林の中に駐車していた。(西新町の歴史(Vol.1))
警察署(現西新交番)と消防署(現西新公民館)の間から百道の浜まで1銭バスが運行していた。泳ぎ疲れた帰りはよく利用した。(斉藤(旧姓坂牧)いそのさんT14年生 談)




Vol.11(公民館、会館)1020年8月中旬掲載予定に続く