西新町風土記VOL.15(近隣の神社仏閣)
鳥飼八幡宮
古来より地域住民の生活と深く結びついてきた八幡信仰。その昔、神功
皇后が新羅からの帰途、鳥飼村で胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を祈
念して杯を振る舞い、後に村がその地に社を建てたのが鳥飼八幡宮の始ま
りといわれています。福岡藩初代藩主・黒田長政が現在地に移転しまし
た。子どもの「健やかな成長」を助ける子安の御利益があるとされていま
す。また、秋には大祭の時期に合わせて「肉フェスタ」が開催されとても
賑わっています。又社務所には福岡勤皇党平野國臣の資料が保存されてい
ます。
平野神社
今川一丁目に、福岡藩が生んだ幕末の勤王志士・平野國臣を祀った平野神社があります。國臣は、文政11年(1828年)、この地に生まれました。國臣が24歳のとき、宗像市大島の宗像大社中津宮の営繕に関わり、当時、島にかくまわれていた薩摩藩士の北条右門を知り、勤王に目覚めました。31歳で脱藩して上京。西郷隆盛らと知り合い、鹿児島錦江湾で僧の月照と西郷が心中(西郷は蘇生)した月照事件にも立ち会っています。その後、國臣は各地を転々とします。35歳のときに、当時の福岡藩11代藩主・黒田長溥に尊王を諫言し、唐人町の浜側にあった枡木屋(ますごや)の獄に投獄されますが、翌年出獄します。しかしながら、但馬地方(現在の兵庫県)の勤王の農兵を組織して挙兵した生野の変に参加し、再び京都六角牢に投獄されて京都所司代の役人(新撰組)に処刑されます。元治元年(1864年)、明治維新のわずか4年前に、日本の夜明けに身命を尽くした國臣は37歳でその生涯を終えました。國臣はまた、優れた歌人としても有名です。福岡にも居住した勤王歌人、野村望東尼との歌のやり取りもよく知られていますが、國臣の一番有名な歌はやはり「我胸の 燃ゆる思ひに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」でしょう。銅像は西公園にあります。
中野正剛像
鳥飼八幡宮の境内の一角に、大正から昭和にかけての政治家中野正剛の銅像が遊説姿で堂々と建っています。中野正剛は明治19年、現在の荒戸1丁目に生まれます。早稲田大学を卒業後、ジャーナリストや衆議院議員として活躍しましたが、第二次世界大戦中に当時の首相であった東條英機と反目。倒閣工作に関わったとして昭和18年に検挙・拘留された末に、突然の自殺を遂げました。正剛の演説は名演説で、どこでも超満員だったようです。
鳥飼埴安神社
中央区鳥飼3丁目3にあります。
埴安姫命:土の神、田畑土壌の神、地鎮祭の神と菅原道真公:学問の神、雷神と火貝土命:火の神、火防の神が御祭神です。
浄満寺
浄満寺の開祖「浄心」は筑前糟屋郡の橘家士分の出身で元亀4年(1573年)に天正と改元し20有余歳の時一寺を建立し小庵を浄満寺と号しました。その後、寛永12年(1635年)本願寺より「本尊阿弥陀如来像」伝(.仏師・春日作)が下付されて正式に本願寺派に移し、承応3年(1654年(現・大手門)に移転、更に寛文11年(1671年)黒田藩から鳥飼松原の一画(現在地)を与られ今日に至っています。亀井南冥・昭陽の墓所がここにあります。
金龍寺
『筑前國続風土記』によると本寺は2度移転しています。元々、怡土国高祖村に永正5年(1508年)に創建された。慶長16年(1611年)年に
黒田藩初代藩主長政の家臣高橋伊豆により荒戸山に移転され、最終的に現在の地に移転したのは二代藩主忠之により慶安2(1649年)です。境内に『筑前國続風土記』の編者貝原益軒とその妻の墓があります。林太朗右衛門は朝鮮出兵の折、戦乱のため孤児となった朝鮮の幼女を連れ帰り養育しています。 この人は後に出家し妙清尼となり、林の菩提を弔いました。妙清尼は「自分が死んだら墓は朝鮮の方を向けてほしい」と遺言し、 彼女の死後に朝鮮の方を向いた地蔵が金龍寺境内に建てられたと伝えられています。この地蔵は妙清地蔵もしくは朝鮮地蔵と呼ばれています。
愛宕神社
西区愛宕2-7 にあります。愛宕神社は西新の発展に多いに関係があるので記載します。東京にある愛宕神社は「出世階段」があることで有名ですが、福岡でも江戸時代に福岡藩2代藩主黒田忠之が寛永11年(1634年)に京都より愛宕権現を勧請し、鷲尾権現のある鷲尾山に祀りました。以前は、この愛宕神社のお祭りには奉納競馬等が実施され、福岡・博多の人は唐津街道を通ってお参りする結果として西新町が賑わうようになりました。
岩窟弁財天(いわや弁財天)
西区愛宕4丁目17-14にあります。縁起には「往昔、姪浜の住人浦某、宗像宮に漁人の海上安穏を祈願した砌(みぎり)「是ヨリ西南ノ8里鷲尾山北麓ノ海辺ニ有縁ノ地アリ」との託宣あり。 依って宝鏡を拝しこの岩窟に奉祀する。のち、江戸時代に至り本地仏弁財天として鎮座せり。 爾来、神燈綿綿悠久の霊威を発揚し給えり」とあります。
その昔、博多湾の波にあらわれ洞窟になったものと思われます
少童神社
室見4丁目3番12号にあります。鳥居には「天満宮の額が掲げられています。神社名と額の社名が違いますが、このお宮は天満宮のある早良郡志によると「当社(龍王神社 産神少童命)は元庄字前(現南庄1丁目2番)に在りしを大正9年に金戸の天満神社と合併し、尚少童神社と称し(後略)」とあります。
正福寺
室見4丁目6番5号にあります。江戸期に人別帳の必要もあり創建されました。「早良郡志」に「当山は庄の水口にあって(中略)檀家百五十戸」とあり、庄のほとんどの人が檀家だったことがわかると思います。室見地区の旧町名に金門(きんもん)町がある。その由来は、金門町一帯は「左座金蔵さんの屋敷跡」であり、その門(下)にある言われています。また、早良郡志に「小童神社は金戸の天満神社と合併した」とあり「金戸」からという人もいます。
荒江櫛田神社
城南区荒江1-13にあります。天照大神:皇祖神のひとつで太陽の神と大幡主神:天照大神に仕えた神族、天御中主神の19世の子孫で北陸地方で怪物を退治した神そして、美容業界の神でもあります。(ただし、他の櫛田神社では、櫛稲田姫命となるなど謎多き神と言われています。)さらに、天児屋根命:祝詞の神で出世の神といわれています三神が祀られています。
客馬車が通っていたと云われる西新の菊池道(野芥村道)を南にたどっていくとあります。元禄年間(1688年〜1704年)に、祀官池田刑部により、早良区に鎮座する野芥櫛田神社の分霊を勧請されたことに始まります。また五穀神も祀ってあります。
飯倉神社
早良区飯倉2-16-3にあります。祭神の菅原道真公は学問をもってなる名誉ある家門に生まれ、朝廷に仕えられたが不幸にして藤原氏のねたみを受け延喜元年(901年)太宰府に左遷され当地などで過されたことにちなみ、建仁元年(1201年)2月に創建されたと伝えられています。飯倉とは景行天皇時代(127年)全国に屯倉を置かれたことにより飯倉の地名が生まれ、その地名を冠して飯倉神社と名付けられたと伝えられています。
Vol.16(西新のその他に関する事項 2021年1月中旬掲載予定に続く)