西新町風土記VOL.16

2021年1月11日月曜日

西新の歴史

 

西新町風土記VOL.16 西新のその他に関する事項


西消防団西新分団




江戸火消と起因を同じくして、西新に黒田藩の御用火消と生まれ西組と称しました。明治14年公設消防組の組織だった一つの民間団体となりました。昭和9年に現在の西新・原・当仁分団(旧西新町、原村、樋井川村)の統一で福岡市西部消防組になりました。(当時の消防法被は森田宗右衛門家の豊田佐吉式機織機(はたおりき)で作られていました)、戦時中は、西新分団も消火・民衆の避難誘導・焼け跡整理等に寝食を忘れて行動しました。昭和21年防護団、警棒団と移り変わりましたが消防の二字は消えることなく西部消防団西新分団と改組されました。昭和22年、歴史あるハドソン号も戦時中の酷使により破損し、地元有志の援助により、ダッチブラザーズ号を購入しました。昭和43年自動車ポンプ車も老朽化、市当局の理解ある協力により新車載型消防自動車の配置をうけました。昭和60年早良消防団西新分団となる。現在は平成27年に新車両を導入し、東は樋井川、西は室見川までを担当し、水害・火災等に対処し市民の安全確保に努めている。分団員には4名の女性団員もいます。また西南大学の学生さんもいます。


校区自治協議会

福岡市では,平成 16年 3月に,昭和 28年から 50年間続いた町世話人制度 を廃止し,平成 16年4月から自治協議会制度を開始しました。西新校区自治協議会・高取校区自治協議会・百道校区自治協議会はそれぞれ所在の公民館に事務局を置き校区夏祭り、校区体育祭及び防犯・防災等の活動を実施しているほか、独自にどんど焼き(高取校区・西新1丁目自治会)敬老会(西新校区)、三世代交流餅つき大会(西新校区・百道校区)独居老人を招待した会食事業(高取校区)等が実施されています。また、西新校区自治協議会と高取校区自治協議会では青色パトロールカーを導入し小学校の登下校時の安全パトロールを実施しています。さらに、高取校区では平成12年に「げんこ塾」を発足させ「子供の健全育成」を目指し自治会活動の中心的な活動を実施しています。また祖原自治会では独自に薬師堂夏祭りを催しています。関係諸団体等として、校区ごとに名称の相違はありますが男女共同参画、青少年を守る会、子ども会育成連合会、体育振興会、交通安全推進委員会,環境活動連絡会議、衛生連合会、自主防災・防犯委員会、更生保護委員会、白寿会、人権尊重委員会 社会福祉協議会、特別委員会 リサイクル委員会、盆行事委員会があります。


百道・藤崎の行政施設(巨大な旧福岡刑務所跡)


福岡刑務所は現在、宇美町にありますが、1965年(昭和40年)4月までは現在の福岡市早良区藤崎にありました。その名残で今も福岡拘置所がありますが、それ以外の跡地は早良区役所や早良市民センター、ももちパレス、九州郵政研修センターなどとなっています。また福岡県警早良署及び西福岡税務署付近には刑場もありました。上の写真は1961年5月に撮影された旧福岡刑務所周辺の航空写真で刑務所敷地の広大さとともに、当時すでに周囲には住宅が密集していたことがわかります。宇美町移転の主体は国ではなく福岡市でした。市と市議会による刑務所移転運動が本格的に動き出したのは1959年、市の人口が60万人を超えた59年頃には藤崎は市西部の中心となっており、「広大な敷地と建物を持つ矯正施設が存在することは、この地区の発展はもとより、伸びゆく西部方面への“大きな壁”となっていました。このことから、刑務所を移転させ、その跡地を高度に利用することに市当局と市議会では態度を決定した」(『福岡市史』)と記録されています。





 









西新町に関係する人物

松田次八(まつだじはち)生年月日は不詳―没安政2年(1855年)。早良郡西新町村年行事格次
西新町の富商松田次八は庄屋在任中、天保の飢饉・天保の改革等のため苦労している村民のため村の年貢の不足分の立て替え、入村者の諸経費、また村々へ貸してる分を全部タダにした。

亀井昭陽(かめいしょうよう) 安永2年8月11日(1773年9月27日)生れ-天保7年5月17日(1836年6月30日)没 墓碑は浄満寺(地行2丁目3)にある。江戸時代後期の古文辞学系の儒学者父亀井南冥の学業を継ぎ、徂徠学を基本に朱子学を取り入れて家学である亀門学を大成した。諱は昱(いく)、字は元鳳(げんぽう)、通称は昱太郎、昭陽はそ
の号である。私塾として亀井塾を開き、広瀬淡窓・広瀬旭荘らを育てた。(亀井塾跡は西新町新地 現ガスト付近)父は亀井南冥(藩校 甘棠館 塾頭 「金印」の鑑定で有名)。また孫の亀井紀十郎は西新小学校の初代校長です。

滝田紫城(たきたしじょう)1822年生れ 1897年没 福岡藩の西新生まれの幕末の蘭学者の瀧田悠吉(たきたゆうきち、号は紫城=しじょう)です。頭山満(戦前のアジア主義の大立者)、金子賢太郎(明治憲法の制作、日露戦争の講和のアメリカでの下交渉で活躍)、栗野慎一郎(明治の外交で条約改正などに活躍)らを育てました。明治8年早良郡吉武村に移り「折中塾」を開くが後のちに小中学校で教鞭を取り、明治16年前原中学校の校長となるが2年ほどで辞任した。墓は飯盛山下の文殊堂にあり、吉武には折中塾の建物と碑が残っている。

山中立木(やまなかたちき) 弘化2(1845)年10月20日、鳥飼村生れ。昭和6(1831)年4月18日没 初代福岡市長 号は、百林洞士・百林洞窟居士・山中百道。福岡勤皇党の一員であったが慎重派でした。亀井昭陽に学んだ。

頭山満 (とうやまみつる) 安政2年4月12日(1855年5月27日)生れ 昭和19年(1944年)10月5日没 幼名:乙次郎は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥でもある。 筒井家から頭山家に養子となり、その志は西新公民館前の大楠に現わされている。

筒井條之介(つついじょうのすけ)頭山満の甥(長兄の子)で、西日本新聞社の前身である「九州日報社」の記者、大正時代に西新が福岡市に編入されるのに尽力した。また西新の消防組織の充実に貢献をした。

西川虎次郎(にしかわとらじろう) 1867年9月28日(慶応3年9月1日)生れ 1944年8月18日(昭和19年)日本陸軍」の軍人。最終階級は陸軍中将。西新町新地で生まれ、西新小学校一期生である。戦前の西新出身のヒーローであり、当時の子どもたちのあこがれであった。
西新小学校高等科を卒業し、私塾で学んだ後西新小学校の訓導(教員)を勤めた後、18歳で陸軍士官学校に入学しました。事後日清・日露戦争等を経て、1917年(大正6年)8月、陸軍中将となり、陸軍歩兵学校長を経て、1918年(大正7年)7月、第13師団長に親補されシベリア出兵に従軍。次いで第1師団長に就任。昭和元年~昭和17年西新小学校後援会長 昭和元年 福岡少年団(ボーイスカウト)を創設 初代理事長 

坂牧周太郎(さかまきしゅうたろう) 天宝4年西新町(プラリバ付近)生れ。亀井昭陽に学び、安政4年家塾を開いた。事後西新小学校の教導、中学修猷館の教授を歴任。西新墓地に碑がある。

四島一二三 (ししまひふみ)明治14年10月14日三井郡北野町に生。晩年を西新2丁目で過ごし昭和51年11月1日逝去。西日本シティ銀行の前身である福岡シティ銀行の創始者。17歳でアメリカへ渡り、帰国後、福岡無尽(福岡シティ銀行の前身)を立ち上げ、福岡の地場企業及び経済の育成につとめた。子息四島司氏も父の跡を継ぎ地場経済と企業の育成に努めた。

中村ハル (なかむらはる)明治17年(1884年)6月1日生れ 昭和46年(1971年)9月2日没  西新町に生まれ、西新尋常高等小学校を卒業し17歳で県立師範学校を卒業。45歳まで小学校の訓導(教諭)を歴任し、昭和5年乞われて九州高等女学校(現福岡大学附属若葉高等学校)に赴任。64歳で同校を退職。昭和24年中村割烹女学院を開校。昭和28年学校法人中村学園を設立、昭和40年80歳で中村学園大学を開学しました。常に問題意識と前向きな姿勢を堅持し「努力の上に花は咲く」は彼女の座右の銘です。

葉室鐵夫 (はむろてつお) 大正6年(1917年)9月7日 生れ 平成17年(2005年)10月30日)没 西新町新地に生まれた競泳選手で、福岡県中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)から日本大学予科に進学する。昭和11年(1936年)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、ドイツのエルヴィンジータス)との接戦の末に金メダルを獲得した。この決勝戦はアドルフ・ヒトラーも観戦しており、表彰式での君が代演奏ではヒトラー自身も起立し、右手を前方に挙げるナチス式敬礼で葉室の栄誉を称えている。

長谷川町子(はせがわ まちこ、1920年(大正9年)1月30日 生れ 1992年(平成4年)5月27日)没 日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』があります。1992年に国民栄誉賞を受賞しました。1994年福岡市西新に疎開中、自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに『サザエさん』の家族構成や名前を思いつきました。また『いじわるばあさん』のモデルは、当時の西新本通りの花石燃料店の「花石つやさん」と頭山満の娘「おとらさん」西川中将の後妻「おせきさん」といわれている。また著書の「サザエさん」の名をつけた「サザエさん通り」「サザエさん商店街」が出来ました。

堀 正人 (ほりまさと)1926年(大正15年)生れ 2017年(平成29年)没 堀建設社長、日本国連協会会員。 西新1丁目で昭和47年から平成17年まで「何でも言いたい放題の会」を主催、自費で各界から講師を招き自宅を開放し、無料で地域および一般の方を招き、4時間の討論をしました。特に、外交問題等をテーマに留学生を招待するとともに、各国大使館等から、PR用の映画を送ってもらう等の工夫をしていました。下の新聞記事にある通りです。



西新町の変遷
・元和4年 (1618年)紅葉(百道)松原誕生(続風土記拾遺)
・寛文3年(1663年)麁原(そはら)村の一部小字西新町ができる  (檜垣文庫目録福岡近世福岡県編の郷帳)  
・唐津街道の北側に家が並び片原町と称す(続風土記拾遺)
・両側に家が建ち南側は鳥飼村、北側は麁原村、さらに西側に中西・大西(続風土記拾遺)
・元禄7年(1694年) 北の松原を切って、諸士の宅地を作る(続風記 
 拾遺)
・新屋敷(1番町・2番町・浜ノ町・西枕町・東枕町) (続風土記拾遺)
・西光寺の請願により西光寺の南側(片原町の北側)に造成、新地と称
 す (続風土記拾遺)
・元文4年(1739年)鳥飼・麁原・荒江の3ヶ村の一部が独立、西新町村
 誕生 (続風土記附録)
・明治期 片原町・中東・中西・大西(裏町)の5町 (地理全誌)
・明治22年 早良郡西新町(西新町村と麁原村が合併)
・大正11年 福岡市西新町(福岡市と西新町が合併)


西新校区内の旧町名
・昭和6年の耕地整理で出来た新名称
 二百石町・西ヶ崎町・城西町・下ノ田町・今川通り新町・上今川橋通
 り・城西橋通り・中田町・西新1丁・西新2丁目。
* 下田町・二百石町は江戸期に二百石塘・下ノ田塘という溜池があった。(続風土記附録河水記)
* 西ヶ崎町は福岡市と合併するまで菊池道から東側は大字鳥飼西ヶ崎でし
 た。
 今もある当時の町名を期したNTT電柱




高取校区内の旧町名
・昭和12年の土地区画整理で出来た新名称 
 弓田町・紅葉町1丁目・紅葉町2丁目・紅葉町3丁目・今川通り新町・中
 田町・西新1
 丁目・上野町・神楽町・藤崎1丁目・藤崎2丁目・弥生1丁目・弥生2丁
 目・弥生3丁目・麁原1番丁・麁原2番丁・麁原3番丁・麁原4番丁・昭代
 1丁目・昭代2丁目・昭代3丁目・昭代4丁目
* 弓田町はこの地で元寇時の元の弓・矢が発掘された。
* 麁原の名は明治22年までの麁原村の名残です。
* 上野町は上野山(現西新5丁目にある宮地嶽神社がある丘)に由来す
  る。
  今もある当時の町名を期したNTTの電柱


百道校区内の旧町名
・昭和12年の土地区画で出来た新名称
 西新町・百道本町・藤崎1丁目・弥生1丁目・飛石町1丁目・室見町1丁
 目
* 飛石町は飛び石橋に由来する。
 ・昭和26年の新町名  室見1丁目
  
 今もある当時の町名を期したNTTの電柱





付録







結びのご挨拶

 長い間のご愛読を有難うございました。2019年11月にVOL.1を掲載し始め2021年1月にVOL.16で完結しました。VOL.1前の(序)で申し上げました通り、原本は西新1丁目自治会(現西新校区自治協議会常任理事)の山崎 剛会長の力作です。ブログ形式に変換されていますので、パソコン、スマホ、タブレットの機種の違いにより文字配置や写真が見えにくい点が多々あったと思います。お詫び申し上げます。
 改めて読み返す時は自治協議会ブログの”Home・西新の歴史"を開いて、”前の記事”を遡って開いてもらえれば早く開けます。西新の町や歴史を知る一助になりますことを念じてお礼とします。

         令和3年1月11日 西新校区自治協議会
                  ブログ担当 安田 一行