西新町風土記VOL.6

2020年3月18日水曜日

西新の歴史


Vol.6(西新町の産業史)

西新町の産業史
 
 西新町の産業は、西新町が、福岡城下に通じる唐津街道と脇山・野芥に通じる野芥村道(菊池道)佐賀三瀬に通じる佐賀道があり交通の要衝であるとともに、高取焼による献上品たる焼き物、生活用品たる水甕・尿瓶等の製造、また藩社である紅葉八幡宮・愛宕の愛宕神社の祭りによる賑わいの他、新屋敷・新地に武士の宅地を作り入居させ、多くの武士・町民・百姓住んだことのより発展していきました。
明治初期は新地では養蚕が盛んに行われましたが、明治後期以降は北筑軌道の敷設、煉瓦会社の設立、皿山地区での陶器製造(土管・ポンプ・水甕等)、福岡炭鉱(西抗(麁原)東抗(鳥飼))等があり鉱業・工業で栄え、さらに中学修猷館・中学西南学園が移転して来る等その発展は目覚ましいものでした。現在では文教地区と言われ、各種学校及び塾が多い。また、西新から藤崎までの約1.4kmの長い商店街は全国でも有数です。
西新町は、江戸時代の前期寛文31663年)に百道松原の南側林道(俗称唐津街道)に小字として作られ、野芥村道(菊池道)より東の地域は鳥飼村、西の地域は麁原村にそれぞれ属していました。そして寛文7年(1667年)には紅葉八幡宮が遷宮されました。元禄7年(1685年)に百道松原が武士の宅地(新屋敷)として開発されました。江戸中期元禄13年(1700年)藤崎での新田開発が行われ、宝永5年(1708年)に東皿山に、享保16年(1716年)に西皿山に窯が開かれました。元文4年(1739年)に鳥飼村・麁原村・荒江村の田甫を分けて一つの村西新町村になりました。さらに延享5年(1748年)には西新町汐入・旧塩焼浜の開墾がなされ寛政13年(1801年)に新地が開発されました。
 こうして西新町には多くの人々が集まり、西新町の発展の基礎が出来ました。



西新町の商業

大正10年の西新町の商況として「早良郡誌」には

と記してあります。さらに早良郡誌には西新町としての諸税の納付において、明治35年と大正10年比較して、国税は全体で10倍弱、1戸平均では4倍弱、また県税は全体で7倍弱、1戸平均では3倍弱、さらに町税は全体で6倍、1戸平均では2倍半になっています。このことは、大正期に入り西新町が如何に大きく発展したかを現わしています。次の職業及び戸口数の変化をみればあきらかです。


江戸期の状況は寛文3年(1663年)に小字西新町が出来、寛文6年(1666年)紅葉八幡が橋本より遷宮され、さらに元禄7年(1685年)新屋敷が開発され、また享保5年(1720年)東蓮寺藩(直方藩)が廃藩となりその藩士の一部が百道浜にはいりました。しかし、この時はまだ紅葉八幡から東側は麁原村西新町、西側は鳥飼村西新町でした。元文4年(1739年)に西新町村として独立しました。
享保20年(1735年)の文書に「日用貸銀定事・日用支配人新西町権平およびきぬや権八」(福岡県史料資料第5輯)とある。またこの頃には許可を得ないで商売をしていた者がいたと思われます。


 
(福岡県史資料 第4輯 福岡県編314341343頁 および福岡県史第2巻下143頁福岡藩郡役所記録)(西新 -作り始めて350年― 藤本光博氏より)
大字西新町村となるきっかけは、新西町〔シンニシチョウ(現中西辺り)〕に日用支配(短期の職業紹介所)のほか商家・商人が多く住むようになり、また浜からは穀物、焼き物の積出が行われ、町としての形成がなされたものと思料します。さらに藤本氏の調べによると安政4年(1857年)の紅葉八幡宮のお汐とり石台の奉納には次の刻印がある。
これには屋号がついておりこの時には商家があったと推察されます。





福大古文書室所蔵)
((西新 -作り始めて350年― 藤本光博氏より)
この頃から西新町には質屋さんが多かったようです。
明治期の西新町の様相について「西新小学校100年記念誌」に下記のように記してある。
 


明治期は片原町(現西新1丁目)が盛えていた。
 大正期には前述の「早良郡誌」にある通り片原町を中心に藤崎まで商店街が伸び、北筑軌道沿いにも商店が出来、西新町の3割弱が商業に携わるようになりました。
昭和5年には公設市場が出来、後には劇場兼映画館聚楽座(後西新東映)も出来、この通りは聚楽座通りと呼ばれ、この通りにも商店が多くできました。終戦を跨ぎ昭和33年まで丸栄西新店(西新4丁目3現市営駐輪場)ができるまで聚楽座通りと片原町が商店街の中心でした。


昭和22年に戦後復興のため福岡市と福岡商工会議所主催の春の市に西新町「明吉商店街」が参加し復興に大いに貢献しました。


明吉商店街は戦後の施設商店街として西新の商店街をけん引した。また、鳥居のある水天宮の位置と明治通り沿いに井戸が掘られました。昔は馬小屋だったとか。


昭和33年(1958年)丸栄西新店(丸栄西新店は福岡初のスーパーマーケット)の大型商業施設が現西新4丁目3(市営駐輪場)に開店し商店街が賑わった。市場は各店で買い物の支払いをしますが、スーパーマーケットはレジで一括支払いをするので、主婦にとって非常に便利でした。しかし丸栄西新店がトポス(現イオン西新跡地)として開業すると買い物客は西新中央商店街に行くようになりました。西新中央商店街はアーケード街にと提案もありましたが、ランニングコストが掛かり過ぎると廃案になり、現在の形のままでの商店街通りとなりました。


西新2丁目商店街(現西新中央商店街)


昭和42年(1967年)西新商店街連合会が発足しました。西新1丁目商店街(61年オレンジ通り商店街)・西新中央商店街・明吉商店街(平成18年 勝鷹水神通り商店街)・はとや商店・ハトヤ新道商店・・西新名店街(昭和61年発足)・中西商店街・美食街B-dish(昭和58年発足)が発足しました。  昭和48年(1973年)にはニチイ西新店(現西新テングットの前身)が開店しました。昭和56年には、西新は福岡市の西部地区の中心として発展することが期待され西新岩田屋が開店ました。が、平成15年に撤退し、地元の企業で西新プラリバを創立して営業再開しました。これも平成27年に閉店しました。令和元年(2019)  エ ルモールプラリバ跡地に現プラリバがオープンしました。




VOL.7(西新町の窯業と炭鉱)に続く