西新町風土記VOL.1

2019年11月24日日曜日

西新の歴史

VOL.1

西新町とは       
西新町の歴史を語るに「新屋敷(修猷館高校・西南大学の位置)は、東蓮寺藩(直方藩)が廃藩になり当藩の藩士を迎えるために、開発された」とか「シンニシマチが変じてニシジンマチになった」とか「高取焼の東皿山焼きは明治初期まであった」とかの言い伝えがあります。本書を熟読していただき、西新町を理解していただきたいものと思料します。
西新町とは,西は金屑川、東は樋井川、南は市道鳥飼姪浜線(旧国鉄筑肥線跡)、北はヨカトピア通り(旧海岸線)までの地積で、明治22年に麁原村と合併、大正11年に福岡市と合併した旧西新小学校区です。明治35年の戸数は539戸、大正10年の戸数は1200戸、そして現在は、戸数20,429戸、人口は42,247人(平成313月付)です。明治期は中西(現西新5丁目)に町役場・西新町警察署・西新小学校が、片原町(現西新1丁目)に早良郡役所・十七銀行がありました。現在は、早良区の行政は百道校区、歴史と伝統は高取校区、商業・娯楽は西新校区に大別できます。そしてこの西新校区・高取校区・百道校区・の3校区が旧西新町です。西新町は、江戸時代に初代福岡藩主黒田長政公が砂丘然とした百道原に松を植え、その百道松原の南側脇道(唐津街道)に沿って、寛文3年(1663年)に麁原村の小字として出現し、元文4年(1739年)に大字西新町村となります。西新町が出現する以前、弥生期の百道浜は、砂丘の遺跡(西新町遺跡)に見るように朝鮮半島及び南西諸島、近畿地方との交流があり、一大貿易港だったようです。当時の博多は、入り江が深く港として未整備だったようです。しかし弥生期以降は、百道浜には人が生活した痕跡は発見されていません。朝鮮半島との交易は平安期以降、博多へと移っていくことになります。鎌倉時代には、「蒙古襲来絵詞」にあるように百道原は元との激しい戦場になりました。江戸期に至るまでの筑前国は博多をめぐる戦いが繰り返され、守護が、少弐氏、大内氏、一色氏、今川氏、渋川氏、大友氏等と代わり、豊臣秀吉の時代は小早川氏が入り、徳川時
代に黒田氏が入ります。江戸時代の寛文3年(1663年)小字西新町が作られます。元禄期になり福岡藩は、百道松原を開き武士の宅地とします。百道松原の松林の南側脇道(唐津街道)が西新町として発展していきます。西新町は、明治22年に麁原村と合併し大正11年に福岡市と合併します。この間、窯業・炭鉱とともに大きく発展します。また、中学修猷館・中学西南学院が移転してきたので文教地区ともなりました。 第二次世界大戦中は、長谷川町子さん(サザエさんの作者)が疎開しています。戦災は市中に比べ部分的な被災でした。戦後、急速に人が集まり商業地区としても発展するようになりました。また、昭和57年 (1982年)に百道浜の埋め立てが開始され、平成元年(1989年)福岡都市高速百道出入口が開通し、アジア太平洋博覧会が百道浜で開催され、閉幕後、街づくりが本格化し、文化施設、レジャー施設、学校、公園、住宅をはじめ多くの機能が集積する百道浜地区が誕生しました。この百道浜地区は多くのIT企業や研究所、放送局もあり、福岡の高度な情報発信基地ともなっています。

弥生期の百道原 砂丘の遺跡(西新町遺跡)
昭和55年~56年修猷館高校改修工事に伴い遺跡調査が行われました。
上の写真は昭和59年に発行された百道原の地質図です。百道原は海岸砂丘だったことがわかります。黄色いSdは砂地です。江戸期以前の百道原はこのような砂丘地帯でした。西新町遺跡が砂丘の遺跡と呼ばれる所以です。この砂丘の一番高い稜線一帯(赤い線)が明治通りにあたり、藤崎までの間に遺跡が多く発掘されました。また、Sd(砂丘)Pd(平野)の接際部が商店街通りにあたります。
日本で最古の「作り付け竈を持った竪穴住居」が多く発掘されました。この「作り付け竈を持った竪穴住居」は朝鮮半島で多く見られ、朝鮮半島との交流が盛んであったことがわかります。




竪穴住居は、当初、中央に囲炉裏でした。しかし中図のような「作り付け竈」ができ、容易に高度な作業が出来るようになりました。「作り付け竈」により、鋳型を使った器物を色々作ることができるようになり、先進技術があったことがうかがわれます。
(続)
ゴホウラ貝は南西諸島で採れる貝であり、広く交流があったことがうかがわれます。

(続)
西新町遺跡は弥生期の遺跡としては珍しく漁村としての遺跡です。西新町遺跡からこの百道原砂丘は朝鮮半島および南西諸島、近畿地方との交流が盛んな国際港だったことがわかります。
防塁から約50m北が当時の海岸線です。この防塁のおかげで弘安の役〔弘安4年(1281年)〕時、元は上陸出来ませんでした。防塁は20㎞にわたって築かれており、後に博多は「石城」と呼ばれました。「石城町」はその名残です。上の写真は西新小の西門通りと西南大の北壁です。この線が鎌倉時代の海岸線にあたります。




上記元寇防塁は文永の役以降、造られました。
文永の役(後述)は、敵が上陸が出来ないような対策をしなかったので、元に簡単に上陸を許す結果となりました。
文永11年(1274年)(文永の役)元は高麗と1273年まで27年間にわたり、また南宋とは1279年までの40年間、断続的に戦争をしていました。この間、日本は高麗及び南宋と貿易(主として硫黄の輸出と銅貨の輸入)を継続していました。元は1266年から1272年にかけて日本に5度の使者を送り高圧的な態度で日本に従属するように迫りました。元は1273年に高麗を降伏させ、更に高麗での三別抄の反乱を征定し、翌年の127410月3日に日本侵攻(文永の役)を開始しました。壱岐・対馬を侵略したのち、1020日朝8時頃百道原へ上陸しました。、この間の戦闘は「蒙古襲来絵詞」によく現わされています。
次頁の明治33年の地図(国土地理院)に「文永の役の百道原の戦い」を図示しています。鎌倉時代は町・お城・道路はありません。大堀は草香江として鳥飼まで伸びていました。樋井川は草香江に流入していました。そして七隈川(1746年頃造)は有りませんでした。
戦いは元軍が一旦水城近くまで押し込みますが、日本軍が押し返し、赤坂山を奪還し、麁原山に陣をしく元軍と赤坂山の日本軍で対峙します。そして、鳥飼潟で一大決戦が行われました。

この鳥飼潟の戦いは豊後・豊前・肥前・肥後・筑後の武士の参戦が確認されており、日本の武士団が総力を挙げた一大決戦であったことがうかがわれます。上の上右図では元軍の破裂する「鉄はう(ぽう)」と「短弓」が描かれています。日本軍は上の下左図にあるように騎馬軍団で対抗しています。神代浮橋(上記写真)は薩摩・肥後の武士が筑後川を渡れるように作られました。

弘安4年(1281年)(弘安の役)蒙古軍(東路軍)は防塁のため上陸できず、唯一防塁のない志賀島に上陸したが、侵攻出来ませんでした。そこで、東路軍は西から来る江南軍と合流し平戸方向から侵略しようと計画を変更しましたが、730日鷹島沖で台風に会い壊滅的打撃を受け、侵攻をあきらめました。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が朝鮮出兵のため名護屋城へ出陣する。田島~七隈~山門の北~姪浜の南~生の松原を通りました。後、この道を太閤道といいました。