西新町風土記VOL.8

2020年5月15日金曜日

西新の歴史


Vol.8(西新町の文教史 ) 


西新町の文教史
                                


1784年 福岡藩 藩校東学問所(修猷館 大名町) 西学問所(甘棠館 唐人町)を設立        




東学問所の館長は竹田定良で朱子学でした。
西学問所の館長は亀井南冥(金印の鑑定者)で徂徠学でした。 西学問所は「寛政異学の禁止」(1790年)の影響と火災(1798年)によ焼失し閉鎖、このため西学問所の塾生も東学問所に通いました。

百道社(亀門塾)1798 年以降 亀井昭陽(亀井南冥の長男) 南冥の後を継ぎ西学問所の 館長をしていたが西学問所の閉鎖に伴い、唐人町から西新町新地(現新今川橋の西側地域)に開塾しました。亀井暘洲・亀井紀十郎と引き継ぎ、明治元年閉塾した。この間、広瀬淡窓等を輩出しました。(亀井紀十郎は西新小学校初代校長)。

寺小屋「心画堂」1848 年(嘉永元年)井口鴑六 西新町に書道教室として開く、生徒数は200 名を抱えた。明治 4 年(1871 年)に廃業。 

滝田塾 滝田紫城 亀井暘洲に学び 11 代福岡藩主黒田長溥に奥頭取に抜擢され、西新に家 塾を開く。門弟には栗野慎一郎・筒井乙次郎(後の頭山満)がいる。

高尚堂(坂牧塾)1857 年(安政 4 年) 亀井暘洲に学んだ坂牧伯望が起こした塾でプラリバの西側に在りました。)。坂牧伯望は慶応 2 年(1866 年)藩校修猷館の教授に任命されました。 

  
中学修猷館 

  


明 3 年(1783 年)福岡藩第 9 代藩主黒田隆斉江戸幕府第 11 代将軍徳川家斉の実弟)が藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じました。

天明 4 年(1784 年)福岡藩の藩校としてニ校を開校しました。甘棠館(西学問稽古所) 初代館長は亀井南冥で「徂徠学」。
修猷館(東学問稽古所)初代館長は竹田定良で「朱子学」。 

寛政 10 年(1798 年)唐人町より発した大火により甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなりました。甘棠館は、足軽等身分の低い武士の子弟が多く通いましたが、甘棠館は当時、幕府より学問統制を目指した「寛政異学の禁」(寛政 2 年1790 年)の政策が出され、朱子学が本流となり、残念ながら再建されませんでした。 

明治 4 年(1871 年)廃藩置県により、福岡県が成立しました。 

明治 12 年(1879 年)向陽社(後の玄洋社)が「向陽義塾」設立しましたが、明治 14 年に閉塾しました。同年、向陽義塾を引き継ぎ、旧福岡藩主黒田家により「藤雲館(法律専門)」が設立されました。 

明治 14 年(1881 年)「中学校教則大綱」が制定される。入学資格を小学校中等科卒業とする。初等中学科(修業年限 4 年)と高等中学科(修業年限 2 年)の 2 段階編制とする。中学校の教育課程を制定する。

明治 17 年(1884 年)「中学校通則」を制定し、中学校の目的・設置・管理等を規定。 

明治 18 年(1885 年)侯爵黒田長溥・金子堅太郎と福岡の旧藩士の尽力により、「藤雲館」
を廃し、十四年振りに修猷館の名を再興することが決定し、「福岡県立修猷館」を開館。黒
田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切が引き継がれました。 

明治 19 年(1886 年)中学校令の公布により、「高等中学校」と「尋常中学校」が発足。  

明治 20 年(1887 年)原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校跡に移転 

明治 22 年(1889 年)福岡県立尋常中学修猷館と改称し、隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端(現・中央区赤坂 1 丁目)に再建・移転しました。

 明治 24 年(1891 年)投石事件が発生し、館長が辞任しました。


明治 27 年(1894 年)六光星の徽章を制定しました。 

明治 32 年(1899 年)中学校令改正に伴い、新年度より福岡県中学修猷館と改称しました。 

明治 33 年(1900 年)大名町から西新町(現在の場所)へ移転しました。 

明治 34 年(1901 年) 福岡県立中学修猷館と改称しました。 

大正 6 年(1917 年)福岡中学(現福岡高校)が修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校した。 

大正 12 年(1923 年)館歌制定  

大正 14 年(1925 年)福岡県中学修猷館と改称  

昭和 2 年(1927 年)福岡中学(現福岡高校)校舎の火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸しました。

昭和 20 年(1945 年) 福岡大空襲により大きな被害を受ける 


修猷館高校

昭和 24 年(1949 年)福岡県中学修猷館から福岡県立高等学校修猷館になる。 


昭和 55 年~56 年修猷館高校改修工事に伴い遺跡調査が行われました。 

  

修猷大運動会 
毎年 9 月上旬の日曜日に単日開催。例年、一般公開されている。全校生徒を 4 ブロックに分け各競技を競う。1964 年東京オリンピックにおいて国立競技場の織田ポールに翻っていた五輪旗は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージ IOC 会長から同校出身の組織委員会会長の安川第五郎に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校に寄贈された。この五輪旗は長らくこの運動会の入場行進に使用されていたが、現在は劣化したためレプリカを使用し、実物は額に入れられ同校の資料館に展示されている。戦後の学制改革により、定時制・通信制課程もありましたが、平成 14 年に定時制・通信制課程は 終了しました。

また、ラグビー部では福岡県立福岡高等学校と毎年天皇誕生日に福高定期戦を行っている。福岡高校が旧制福岡中学時代〔大正 6 年(1917 年)〕に修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、同じく旧制福岡中学での昭和 2 年(1927 年)に火災校舎全焼時の福中復興支援を全校で行ったことや武士の町福岡の代表校修猷館とその対照に商人の町博多の代表校福岡といったことを背景に両校の関係は特別に深い。 

西南学院 


大正 5 年(1916 年)私立中学西南学院を福岡パブテスト神学校の校舎を利用して開院しました。 

大正 7 年(1918 年)早良郡西新町に移転しました。 

大正 10 年(1921 年)財団法人私立西南学院財団を設立し、西南学院高等部(文科・商科)を設置し、中学西南学院の呼称を西南学院中学部と改称しました。 

大正 12 年(1923 年)高等学部に神学科を増設する。 

昭和 6 年(1931 年 )リンドバーグ夫妻来訪 

和 12 年(1937 年) ヘレン・ケラー来訪 

昭和 14 年(1939 年)西南学院商業学校を設置しました。事後、西南学院商業学校は西南学院工業学(昭和 19 年)→西南学院商業学校(昭和 21 年)と変わり、昭和 23 年新制の定時制高校に切り替えられ、昭和 36 年(1961 年)に廃止されました。

昭和 19 年(1944 年)西南学院高等学部を西南学院経済専門学校に改称、その後、西南学院経済専門学校は西南学院専門学校(昭和 21 年)に改称しましたが、昭和 29 年に廃止されました。

昭和 24 年(1949 年)西南学院大学学芸部(神学専攻・英文学専攻)を開設しました。 

昭和 26 年(1951 年)財団法人私立西南学院財団を学校法人に組織を変更しました。 

昭和 37 年(1962 年)に夜間部が廃止された。勤労学生の就学に大いに貢献があった。 

昭和 43 年(1968 年)~昭和 47 年(1972 年)は国際反戦デーに全国大学と同様、学内で火炎瓶が飛んだが大部分の学生は過激派学生を諫めた。

昭和 61 年(1986 年 )キング牧師夫人 C.S.キング来訪しました。 

平成 6 年(1994 年)高等学校男女共学に移行しました。 

平成 8 年(1996 年)中学校男女共学に移行、併せて中高一貫教育を実施しました。 

平成 15 年(2003 年)西南学院中学校・西南学院高等学校を百道浜に移転しました。 

平成 22 年(2010 年)西南学院小学校を設置しました。 
大学は昭和 24 年以降、幾多の学部、学科の増設等を実施してきました。現在、西南学院は、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学を有する総合学園として発 展し続けている。また地域にしっかり根差していて学生さんたちの活動は商店街活動、地域ボランティア等その活動は幅広い。


平成 28 年(2016 年)に創立 100 周年を迎え、西新の発展の大きな功績を担っている学校です。



百道中学校


戦後の学制改革により昭和22年、修猷館高校に間借りをして開校した。同年11月旧福岡市立第一工業(現在の福岡市立博多工業高校の前身)の敷地を譲り受け自前の校舎を持つ校舎は一棟だけであり全部を収容できなかった。昭和2526年までの入学式等の行事は修猷館講堂で行われた。校舎がこのような状態で運動場は鉄棒があるだけであとは砂浜だった。町の有志の方々が生徒のために鍬鋸を持参で毎日作業されていた。生徒たちも好意で提供されたトラックの荷台に乗って名島発電所まで石炭ガラの積み込みに行き、帰ってはそれを砂の上に敷き詰め昭和24年10月とりあえずの工事として校庭が完成した。昭和37年(1962年)鉄筋3階建ての新校舎が完成しました。しかし、校内の処々に松原の面影を見ることができる。現在校庭は中学校のサッカー・野球の公式試合に使用されている。部活動では中学校には珍しくラグビー部・囲碁部を抱えている。平成22年(2010年)太陽光発電装置を設置されました。また、昭和30年(1955年)に現室見小学校地に百道中学校の分校を発足させました。分校は、翌年には高取中学校として独立しました。






高取中学校





 昭和30年(1955年)に現室見小学校地に百道中学校の分校として発足し翌昭和31年(1956年)高取中学校として独立しました。昭和35年に室見小学校(昭和34年に現高取中学校地に設立)と校地交換をして現在に至っています。この校地交換は高取中学校の生徒の増加対策と当時の国鉄筑肥線を渡るのに小学生よりも中学生の方が危険は少ないとの判断で実施されました。結果、高取中学校は旧西新尋常小学校区から外れ旧原尋常小学校区(現大原小学校(昭和52年設立)区)になりました。現在、高取中学校区は高取小学校区と室見小学校区であり、大原小学校の児童は卒業すると原中学校、原北中学校にそして平成元年からは原中央中学校(平成元年(1989年)設立)に進むといった状況になっています。原中央中学校が設立された時、「高取小学校は原中央中学校に進み、大原小学校は高取中学校へ進む」との提案がなされたそうですが、以前からのいきさつで高取小学校は高取中学校へ大原小学校は原中央中学校へ進む結果となりました。前頁写真は左の写真が現在の正門(校地の北側)です。右側の写真が旧正門(校地の南東側)です。通学する生徒は、高取校区と室見校区なので専ら現在の正門(旧通学門)を使用することとなり、通学門が正門となりました。昭和35年当時、高取中学校の周りは田圃と畑であり家屋は6世帯しかなかったそうです。そして、大雨が降ると校舎が水に浸かる状況になったそうです。




西新尋常小学校


校章の五星は旭日章を現わしている。(現在の警察記章と同じ)明治の教育制度が始まり、当時の福岡市の郡部の小学校に多い。(原小、姪浜小等)

 明治6年(1873年) 西新町と麁原村とで学校組合を以て、西新・百道・紅葉の三校を西新・新屋敷・新地の三ケ所に設置しました。

同年  百姓一揆(竹槍騒動)のため、破壊されたが、民家を以て仮校舎としました。

明治7年(1874)西新・百道・紅葉の3校を合併し紅葉小学校設立、さらに 明治9年(1876年)紅葉小学校を西新小学校と改称しました



明治19年(1886年)早良全組合を以て西新町に高等小学校を創立し、北部高等小学校を併置し早良郡
内の児童を収容し、西新小学校に付設しました。

明治20年(1887年)学校令改正され尋常・高等の二種となり、 西新尋常高等小学校と改称しました。また、簡易科も置かれました

授業料は一戸一人の者は8銭、他は半額とされました。高等科に就学すると授業料が高くなるので行かない者もあった。男子は尋常科へは大体入学したが、女子で4ヶ年を卒業する者は僅かでした。



明治25年(1892年)入部・脇山・内野の三村で学校組合を組織し、西新尋常高等小学校から入部高等小学校を分離させました。

明治32年(1899年)西新高等小学校区域を有田(原・金武・田隈・壱岐・姪浜)、草ヶ江(西新・鳥
飼・樋井川)に区分しました。

明治34年(1891年)尋常小学校の授業料が全廃されほとんどの家庭の子供が入学するようになりました。 

明治44(1901)現在の佐賀銀行から北へ西南学院との間あたりに新校舎が建設され移設した。

大正8年(1909年)鳥飼村が福岡市と合併し、草ヶ江高等小学校組合を解散し、西新町・樋井川村は尋常小学校に高等小学校を併設することになりました。

大正11年(1922年)西新町と福岡市が合併、福岡市立西新高等尋常小学校と改称しました。

昭和3年(1928年) 西新高等尋常小学校が現在地(西新6丁目)に移転しまし。

昭和11年(1936年) 城西高等小学校(現城西中学校)新設のため、高等科廃止、西新尋常小学校(修業年限6年)と改称しました。




昭和16年(1941年)西新国民学校と改称し軍事色一色でした。職員の男子は海軍服、着帽、登下校は挙手の敬礼また国民学校校歌も作られた。また、意識高揚のため、式典等では軍歌「元寇」が唱和されていました。



昭和20年(1945年)福岡大空襲を受け、陸軍の物資が講堂に運び込まれ、兵隊が監視していた。また学校の壁は黒く塗装されていました
同年  終戦
昭和22年(1947年)学制改革で福岡市立西新小学校に改称しました。

西新小学校






昭和22年(1947年)児童数2166人。学制改革により福岡市立西新小学校
と改称。昭和23年教員60名児童数2800名を超える。48学級でした。昭和22年から給食が始まりましたが食材の不足等により週6日が週3日となったりしましたが、給食実験校に指定されました。給食については昭和32年文部大臣より表彰状をうけました。昭和26年(1951年 )福岡市立高取小学校を分離しました。昭和30年(1955年)福岡市立百地小学校を分離、平成5年(1993年)には新しくシーサイドももちの百道浜小学校を分離しました。
また、同年、韓国釜山のナムチョン小学校と姉妹校を結びました。さらに、平成27年に中国総領事の子息が転入したことが切掛けで中国総領事館との交流があり、現在、20177月に南京暁庄学院付属小学校と交流をする意向書を結んでいます。このように国際交流化を進めている。
また、現在の正門及び体育館の用地は昭和40年10月に西南学院の構内に有った市道と交換され、福岡市が西新小学校地とし、昭和44年に講堂兼体育館が新設され、昭和62年に現在の体育館が新講堂兼体育館として新設されたものです。



高取小学校 




昭和26年(1951年) 西新小学校から高取小校分立。高学年は机と椅子を持って、転入しました(元高取小学校教諭中村先生の話)。1年生~5年生までの児童800名と職員20名が移動し現在地に開校しました。当時、校区では1戸当たり200円、児童がいる家庭は250円を拠出(この頃の先生の初任給6,500円)して教材や設備費にあてた。校名の由来は校区住民から募集し、「南西新」「城西」「紅葉」「高取」等の名称が寄せられ「高取」に決定した。昭和27年に小学校の「一学校一研究主題」として「ローマ字教育」を命題として与えられた。その後、児童数が増え昭和34年に室見小学校を分離させた。平成14年から伝統の継承の一つとして「高取舞」(高取公民館の50周年記念として平成14年作成)を3年生が地域の方々から受け継いでいる。また、第2グランドを保有し、平日16:00から土日祝日は市民に開放されている。校区行事に活用されているまた、就学児童が現在1,250名に膨れ上がり、更に2022年度には1,300名ももなるという校舎の拡張計画もある。拡張計画にある正門内の桜の伐採ついて、「桜」の存続を「移植」及び「苗木」でと住民の意思があり存続が決定した。


百道小学校







   西新小学校の児童数増加を受け、昭和29 (1954)41日に西新小学校百道分校として創設され、翌30(19554月1日付けで福岡市立百道小学校として独立開校した。当時は児童数768名、学級数14師数22名の規模であった。開校当時は福岡刑務所北側松林の中にポツンと校舎が建ち周辺は家も少なく海岸から潮騒が聞こえるほど静かなものだった。学校ではこの環境を利用し、屋外学習に取り組み電柱等の廃材を払い下げてもらい、方形・円形の様々な屋外教室を松林の中に作った。以後、児童数が増加の一途をたどり、昭和34 (1959には,児童数1,228名、学級数25となる。同年、室見小学校が創設され、校区の一部を分離して、児童数905名、学級数20となった。室見小学校の講堂建設の費用は全額域内の募金による寄付だけだった。また講堂のどん帳は百道小学校講堂の建築資金を寄付した人が校区変更で室見小学校に移ったのでその返礼のかたちで百道小学校PTAから寄贈されたものだという。現在の室見小学校の体育館は新しく建てられたので、そのどん帳は残っていない。学校は百道松原に建てられた雰囲気は今も残っている。そして、台風で松の木が倒れると、また黒松の苗木を植える等江戸期の松原を大事にしている。百道小学校体育館前にある「大王松」の「松ぼっくり」は通常の「松ぼっくり」の34倍大きく、卒業しても自慢となっている。
   


百道浜小学校




福岡太平洋博覧会の後、平成5年に西新小学校から分離独立しました。平成26年にユネスコスクールになりESD(持続可能な開発のための教育)の実践として学校の特色となる芝生の管理がある。3年生が種をもらって芽が出たら植える。夏芝・冬芝を植え一年中緑が青々している。また能楽体験や地域と一緒になり6年生は卒業茶会などもしている。地域の特性として、外国籍の児童もいる。観光施設が連接しており観光客が校内に入ったり、日本の児童の姿として写真を撮ったり等の困りごともある。






福岡インターナショナル・スクール



   福岡市早良区百道3丁目18-50にある「福岡インターナショナルスクール」(FIS)は、1972年米軍基地(板付)内の学校閉鎖を契機に創設されました。1990年に早良区百道に移転し、3歳(幼稚園・プリスクール)から18歳(高等科)までの生徒が通うこの学校は、国際都市・福岡に不可欠なインフラとし福岡市、福岡県、地元財界などにより設立された学校です。現在通学している生徒の国籍は20カ国以上です。また、先生も多様で外国人採用が主で、その国籍は13カ国にのぼります。多国籍の生徒・先生とともに学ぶ中で、ごく自然に英語力や国際感覚、集団生活のルールとマナーを身につけることができます。FISは米国の学校認定機関WASCの公式な認定校であり、世界中の大学で高く評価されている教育プログラム「国際バカロレア・ディプロマ・プログラム」の認可も取得しているため、高等科卒業後は自動的に日本の大学を含む世界中の大学への受験資格を得ることができます。


百道松風園



現百道2丁目百道小学校西側にありました。終戦後、外地から博多港へ引揚げてくる人々の中には、引揚げ以前あるいは引揚げの途中で、親を亡くした子どもたちがいました。
昭和217月、百道松風園は、そのような孤児たちを一時的に保護収容し、縁故先の照会を行う施設として設置されました。同年11月までに、約750名の引揚孤児を保護し、引取先へと送り出した松風園は、12月から新たに「浮浪児収容一時保護所」としての活動を開始します。当時の街にいた戦争孤児や家出少年たちを保護収容し、養育を行う施設となりました。家庭を失くし、街頭で生活を送っていた子どもたちに、食事や就寝等の基本的生活習慣を取り戻してもらうため、松風園ではまず、規則正しい生活をさせることに努めました。当初は集団生活になじめず、脱走を繰り返した子どもたちも、徐々に松風園生活に慣れていきます。子どもたちは、松風園を「一家」とみなして、職員を「兄さん」「姉さん」と呼びました。また昭和22年には市社会課職員と婦人警官たちが連日午前4時から出勤して子供たちの行方を確認していました。時には31名しかいない状況もあったそうだ。
昭和24年昭和天皇の九州行幸において、第3日目となる521日の訪問先に百道松風園が選ばれました。
昭和23年、西新小学校分校設置認可され、園内で正式な義務教育課程が実施されました。この分校は、昭和30年には百道小学校松風園分校、31年には百道小学校松美分校と校名を変更しながら、昭和52年まで存続しました。松美分校閉校した後は本校百道小学校に通学し、中学校は百道中学に通いました。昭和23年に園では集団生活の生活指導の核として大久保郁哉指導員を中心に「ボーイスカウト福岡第10団」を組織しました。また、平成25年からは筬島晋指導員に引き継がれました。また周囲の人々の助けも多くありました。西新1丁目の山崎四郎氏は「カンカンおじさん」と呼ばれ、空き缶等の清掃活動で役所から得た図書券を同園に寄付し、同園では「山崎文庫」と称していました。園は平成15年にその役目を終え、閉園しました。




VOL.9(西新町の道)2020年6月中旬掲載予定に続く