西新町風土記VOL.7

2020年4月14日火曜日

西新の歴史


Vol.7 (西新町の窯業と養蚕業と炭鉱)




西新町の窯業と養蚕業と炭鉱

高取焼

江戸期における陶器は幕府及び各藩の統制品であり、その製法等は門外不出でした。高取焼は秀吉の朝鮮出兵時に黒田如水・長政により連れて来られた八山(高取八蔵 後に士分(70人扶持)を与えられた)が小石原に窯を開きました。二代藩主忠之公の時、八蔵親子は近江茶人小堀遠州の下で茶器を学び、唐津の浪人五十嵐次右衛門(瀬戸の陶法)ともに転々(製法を秘匿または製陶しているのを隠すため)としては窯を開き、宝永5年(1708年)四代藩主綱政公の時に早良郡麁原村の上ノ山に窯を開いて、茶器等を製作した。土は下田(祖原157)から採土(後下田池となる)しました。
焼き物の製造は、藩庁の経営(東山御焼物所)であり、献上品として東山高取と称し藩主の贈答用に使われた。しかし、正徳5年(1715年)西新町瓶焼六郎次家より出火し町屋数件と藩士宅合わせ十数件焼失しました。このため、西皿山で生活用品とともに一時期御用製品が作られるようになりました。




*上記電柱の紹介文に明治維新まで「東皿山焼き窯」があったようになっていますが、寛保元年(1741年)東山窯が大破し、西皿山に新大窯が造られ、延享2年(1745年)に東山では御用製品の製作の内「造形・成形・釉薬作業」、西皿山で「焼きの工程」(西皿山焼)が行われました。「高取歴代記録」(藤本氏 調べ)(また、ここでは江戸後期には石炭が掘られている)


西皿山での焼き物は、五代藩主宣政公の時、享保元年(1716年)小石原から柳瀬三衛門を窯方頭取に早川・中川(後亀井)の2陶工をもって西皿山(現高取1丁目)に、民用のすり鉢等の窯を開きました。が、奉行の統制下にありました



「藩から陶器を営むところにお金を貸して、出来た器を納めさせてる、
奉行をおいてその事業を統制しているが、庶民のなかには安く売ってい
る。その利益は僅かであるので、やめたいと言っているが、日用品とし
て欠くことができない器であるがゆえに我が国で造らなければ、よその
国のものを高く求めなければならない。よって人々の憂いとなっては



るが、それは聞き入れられない。」となっています。





この西皿山の焼き物は、奉行の統制下にあったとはいえ質のいい陶器が生産され、筑前の名物なりました。焼き物は大西の浜(百道浜)から船で積み出していました。しかし、明治以来高取焼は変転浮沈を繰り返します。日用雑器、茶器、置物、産業、建設用と幅広い製品を作り出しその時々の需要に応じていました。
 井戸は、当初はつるべ井戸でしたが、木製ポンプに代わり、次いで陶器ポンプにかわりました。狂いがなく値段の安い陶器ポンプは、九州一円から上方まで進出しました。しかし水道が普及しポンプの時代はおわりました。







下の写真は「耐酸陶器」です。窯元樺島家ではこの「耐酸陶器」を、薬品を貯蔵しておく容器として開発しました。戦争中、化学工場にはなくてはならないものでしたが、プラスチック、ステンレス等が登場し、時代の終わりを告げた。現在、高取での窯元は、茶陶等に専念する亀井家だけになっています。
 

登り窯の跡地にはキルン(英語で窯)という名のマンションが数棟建っています。


福岡煉瓦会社





明治20年(1887年)福岡煉瓦会社が創設され、レンガ・土管を製造し
。以前、レンガは京阪より取り寄せていました。この工場で製造され
たレンガ・土管は、博多・福岡の建物の建造、軍港、鉄道の敷設工事に
使われ、台湾にまで出荷されていました。土は下田(現祖原15-7
から採土しました。跡地は後に下田池になりました。



西新に養蚕業が広がる



明治18年(1885年)筑陽社の分社が新地に設立される。養蚕業が起業される。
*筑陽社 士族の起業(養蚕・製糸業)のための資金を融通する組織。





西新町にあった炭鉱

「早良郡誌 西新町」に次の通りある







明治43年(1910年)から本格的に麁原炭鉱からの出炭が始まりました。
明治43年の出炭は5,987t,でした。



(「大正期早良炭田における炭鉱業-福岡炭鉱の事例- 福岡大学 永江眞夫」より抜粋)

 石炭の運搬は樋井川・七隈川があり、陸送には麁原山の南を経て西新町~藤崎に至る田や畑、山林を買収して石炭運搬の専用軌道を作り、北筑軌道に接続し当初は今宿から海路を以て運搬した。しかし愛宕、姪浜での石炭開発が進むと専用軌道を小戸まで伸ばし、ここから海送とした。
石炭運搬軌道は大正4年頃から建設され、7年頃一応完成(小戸港までの延伸)しました。





VOL.8(西新町の文教史)に続く