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Vol.5(昭和期(戦後))
昭和期(戦後)
昭和20年(1945年) 終戦 西新の聚楽座(映画館)が戦後焼け残り、営業開始しました。
昭和21年~昭和24年 西南学院専門学校ラグビー部 3年連続全国大会優勝(さらに西南学院大学は昭和26年~昭和28年に全国大会3連覇しました)
昭和22年(1947年)学校教育法の制定。百道中学校が設置(4月~昭和23年9月 修猷館に仮校舎住まい)され、事後、福岡市立第一工業学校が舞鶴へ移転しその跡地に百道中学校を開校しました。(校庭整備のため全校生徒が紅葉山から赤土を運ぶ)
明吉商店街は戦後の施設商店街として西新の商店街をけん引しました。また、鳥居のある水天宮の位置と明治通り沿いに井戸がありました。昔は馬小屋だったとか。
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同年 戦後復興のため福岡市と福岡商工会議所主催の春の市に西新町「明吉商店街」が参加し復興に大いに貢献しました。
明吉商店街は戦後の施設商店街として西新の商店街をけん引しました。また、鳥居のある水天宮の位置と明治通り沿いに井戸がありました。昔は馬小屋だったとか。
昭和23年 (1948年) 西新小学校児童数2389名、3年生まで二部授業でした。
写真は西新電停前商店街です。西新小売市場(現西新1丁目テング屋ビル)みどりマーケット、明吉商店街、ハトヤ市場、三ツ矢市場(現十八銀行の西側一角)等商店街通りは戦後復興の勢いが顕著でした。
昭和24年(1949年)西新小学校で10月からユニセフ給食が始まった。
昭和26年(1951年)高取小学校を分立。高学年は机と椅子を持って、転校。(元高取小学校教諭中村先生の話))1年生~5年生までの児童800名と職員20名で現在地に開校しました。
同年 西新地区にリヤカー行商が出現(昭和42年からリヤカー部隊)し西新商店街で販売するようになりました。
同年 高取幼稚園が開園しました。
昭和27年(1952年)9月10日、城西(現在レガネット看板付近)に米軍機F86墜落(西川、香山、樋口氏(S11年生)の話)(写真等は、米軍MPにより、フイルム没収されたとのこと)
昭和28年(1953年)中西商店街が発足しました。
同年 西新公民館が開設されました。
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昭和30年(1955年)西新小学校、半年間、2部授業と講堂での授業でしたが、同年百道小学校を分立しました。
同年 百道中学校の分校を室見(現原3丁目)に開校(翌年高取中学校になる。)
昭和31年 (1956年)曙団地生まれる。
「曙団地」は「日本住宅公団」、現「独立行政法人都市再生機構(UR)」)により曙に建設された240戸からなる賃貸の公団住宅。入居開始は1956(昭和31)年5月で、九州の公団住宅としては一番早く、全国的に見ても最初期の団地であった。
同年 高取音頭が作成されました。
同年 西新カトリック幼稚園 開園 しました。
昭和32年(1957年)大相撲九州場所始まる。西新でも多くの力士がみられた。
昭和33年(1958年)丸栄西新店(福岡市初のスーパーマーケット)の大型商業施設が現西新4丁目3(市駐輪場)に開店し商店街が賑わった。市場は各店で買い物の支払いをしますが、スーパーマーケットはレジで一括支払いをするので、主婦にとっては、非常に便利でした。
*昭和30年代は戦後の西新の黄金期で商店街のほかに映画館7件等娯楽があり、非常に多くの人々で賑わいました。
昭和38年(1963年)大雨洪水災害6月29日1時間最大雨量53.8㎜、一日降水量229㎜でした。樋井川、七隈川が氾濫し上今川橋通り、城西、曙地区で床上・床下浸水の被害がありました。この38年大雨洪水災害を契機に樋井川の整備がなされました。
昭和40年(1965年)西新保育園開園 (焼却場跡地でもありトラック50数台の土砂を廃棄したそうです)(元園長先生の話)。
同年 福岡記念病院が西新で開業、地域医療を支える。
昭和42年(1967年)西新商店街連合会 発足 西新1丁目商店街(昭和61年オレンジ通り商店街)・西新中央商店街・明吉商店街(平成18年 勝鷹水神通り商店街)・はとや商店街・ハトヤ新道商店街・西新名店街(昭和61年発足)・中西商店街・美食街B-dish(昭和58年発足)
昭和44年(1969年)福岡市に区制(博多区・南区・東区・西区で西新は西区)が施行されました。(新町名になり下田町、二百石町等の地名が消える)
昭和46年 (1971年)七隈川の小河川整備事業が随時始まり、平成6年まで続けられた。
昭和47年(1972年) 福岡市が政令指定都市になりました。
昭和48年(1973年) ニチイ西新店(現西新テングットの前身)が開店しました。
昭和49年(1974年)西新パレスボールが開業しました。
西鉄バスの西新営業所跡に西新パレスおよびパレスボールがオープンしました。当時はボーリングブームでマイボールを片手に家族連れ、職場の仲間等で大変な賑わいでした。
昭和50年(1975年)路面電車幹線の廃止 百道海水浴場が閉鎖しました。
昭和53年(1978年)福岡市渇水、昭和53年5月から昭和54年3月までの287日間、1日14時間の給水制限がありました。ポリ容器が品薄となった。食器を洗う水を節約するために多くの家庭では紙皿や紙コップが使われました。
昭和54年(1979年)脇山口から南へ下る道路が、市制90年事業で「早良街道」と愛称が付けられた。
昭和55年(1980年)西新音頭が作成され、詞は校区内から募集し斉藤清朝氏の詞が採用されました。
昭和56年(1981年)地下鉄空港線開通し、平成30年の1日の利用客はほぼ23,000人にのぼります。
同年 西新は福岡市の西部地区の中心として発展することが期待され、西新岩田屋が開店しましたが、平成15年に撤退し、地元の企業で「西新プラリバ」を創立して営業再開しました。平成27年に閉店しました。秋葉神社〔昭和44年以前の西新2丁目(現西新4丁目)の氏神として崇敬〕は西新岩田屋の屋上に配置されましたが、現在は紅葉八幡に合祀されています。
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示となり、百道浜埋め立て工事始まりした。 シーサイドももち海浜
公園の松原は、江戸時代に倣い市民の寄贈により造林され夢松原と
命名され、現在立派な松並木になっています。寄贈した市民の名は
陶板に記され、夢松原の北側にあります。
昭和58年(1983年)国鉄西新駅が廃止となりました。
昭和61年(1986年)はとや商店街およびハトヤ新道商店街が火事に罹災しました。
同年 西新1丁目にコミニティ道路「オレンジ通り」が生まれました。
昭和63年(1988年)西新小学校新校舎落成しました。
平成期
平成元年(1989年)福岡都市高速百道出入り口開通し、アジア太平洋博覧会が百道浜で開催された。西新が「シーサイドももち」の入り口となりました。
平成5年(1993年) 百道浜小学校開校し、百道浜の児童は西新小から転校した。
同年 西新留守家庭子ども会が発足し、西新小学校の南側に建物が出来た。
平成6年(1994年)西南学院高校、平成8年西南学院中学が男女共学になり、地域の賑わいも明るいものになりました。
同年 年間降水量が気象台観測史上最も少なく、8月4日から翌平成7年5月までの295日間一日8時間の給水制限が行われました。
平成7年(1995年)ユニバシヤード大会が福岡で開催されました。福岡市の各校区で来福する外国の選手を応援接待する体制を取り、成功裏に終わりました。西新校区ではサンマリノ共和国(イタリア半島中東部)・ニジェール共和国(西アフリカ)を応援し、そうめん流し等で接待しました。また高取校区では原校区と共にナイジェリアを担当しました。
平成11年(1999年)西新最後の映画館西新アカデミー(旧日活)が閉館しました。トレンドの映画からアニメ映画まで幅広く上映し地元民に愛される映画館でした。
御笠川が溢れ、福岡ではJR博多駅が水浸しとなり都市機能が麻痺し典型的な都市型水害の被災例となりました。
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平成15年(2003年)エ ルモールプラリバが開店したが、平成27年に 閉店しました。
平成17年(2005年)福岡県西方沖地震(Ⅿ7.0)が発生、玄海島では大きな被害が出たが、西新地区では震度5強でした。古い建物では壁の一部が剥がれる被害があった。
平成21年(2009年)集中豪雨により福岡市中心部では多々良川、御笠川、那珂川、樋井川、室見川等が増水し、洪水のおそれがあるとして1万世帯あまりに避難勧告が出ました。七隈川は無名橋を越流しましたが、住民の協力による止水板設置で浸水がまぬがれました。
平成21年(2009年)市道藤崎(早良口)四箇線を愛称「原通り」としました。
平成23年(2011年)西新小学校昭和36年卒業生小川洋氏福岡県知事になる
平成24年(2012年)「サザエさん通り」が誕生しました。
平成29年(2017年)サザエさん通り商店街(オレンジ通り商店街・西新中央商店街・中西商店街・高取商 店街・藤崎商店街)を発足させ西新から藤崎までの大商店街になりました。
平成30年(2018年)成人病センターが閉鎖しましたが、福岡大学西新病院として継続開院ました。
令和元年(2019年) エルモールプラリバ跡地にプラリバがオープンしました。
VOL.6(西新町の産業史)に続く