西新町風土記VOL.4

2020年1月28日火曜日

西新の歴史


Vol.4
大正期・昭和期戦前


大正2年(1913年)紅葉八幡宮の境内を北筑軌道が通るため、紅葉八幡宮は皿山(高取1丁目26)に遷宮し、隣にあった閑松院は今宿の青木に移転し別寺(雷山千手観音寺が管理)となりました。
同年   福岡監獄(大正11年福岡刑務所に改称)が須崎より藤崎に移転してきました。(昭和401965- 福岡刑務所が宇美町に移転)。土手町拘置支所が、福岡刑務所拘置監と合併し、福岡拘置所として現在地に移転しました。
大正3年(1914年) 麁原炭鉱、閉鎖。鳥飼炭鉱(福岡炭鉱一坑東坑)が開抗されました。
大正5年(1916年)西新町警察署、西新2丁目(現西新交番・市営駐輪場)に移設した。
同年   字伊牟田に陥没地、引き続き翌年にかけ下の田(現城西3丁目)・尾崎・(現昭代1丁目)サヤノ下・濱・阪口(現曙12丁目)・新開(現昭代3丁目)・筑牟田(現昭代2丁目)に陥没が及びました。また、この陥没地は稲作不適地となり蓮が植え付けられました。
大正6年(1917年)西新小学校1期生西川虎次郎氏が陸軍中将になり、西新町の雄から福岡の雄となりました。




西新町の急激な発展が始まる。

次頁表は職業別就業戸と人口の増減を年度別に表したものです。
年度別職業と人口(早良郡志の関係個所を抜粋)



大正5年と大正6年を比較すると戸数では738戸が1,246戸で508戸も増加している。しかし人口は6,215人から6,589人となってその増加は364人です。この人口増加に比し戸数の増加が多いことは、独身の男女の急激な増加をあらわし炭鉱に従事したと推察されます。

雑業は種類がさだかではないがサービス業、娯楽業等を現わしていると推察されます。
また、この頃に、西新にも遊郭(特殊飲食店)が出来たと思われます。(松竹屋・黒猫・浮世、その他多数)花魁姿も見られたという。(斉藤いその大正14年生)
大正7年 (1918年)中学西南学院が大名町(現赤坂)から現在地に移転してきました。
同年     百道海水浴場が福岡日日新聞社の経営管理の下に開場しました。
大正8年(1919年)隣村の鳥飼村が福岡市と合併しました。
大正10年(1921年)百道海水浴場で初めての花火が開催されました。



大正11年(1922年)西新町と福岡市が合併し、福岡市西新町になりました。
同年  市内路面電車が姪浜まで開通しました。
同年  福岡市に上下水道が創設されました。 
大正14年(1925年)北九州鉄道(旧国鉄)西新町(にししんまち)駅(現昭代3丁目付近)に開業しました。  駅舎は北向きに建っていました。




大正15(1926)福岡市塵埃焼却場がサヤノ下(現曙2丁目)に開設されました。この時、オレンジ通りの交差点(宮崎鮮魚店前)から南へ焼却場までの道路が整備されました。また焼却場は昭和35年まで運転していたが、昭和49年西(後早良)市民プールに生まれ変わりました。

昭和2年(1927年) 西新小学校が現在地(現西新6丁目)に移転する。
昭和3年(1928年)北九州鉄道西新町駅から大嘗祭に使用される「供納米」が運び出されました。






主基斎田に使用される農機具は西新町の坂田鍛冶屋(現メープルコート西新)で製作されました。 主基斎田」の供納米は品種「殻良都」で「昭代(しょうだい)」と名付けられました。1937(昭和12)年に、駅の北側一帯(駅を含む)が昭代町(現・早良区昭代)と命名されました。

同年   九州水力電気(後西日本鉄道)が城南線全線を開業しました。(昭和50(1975年) 全線廃止され城南線の名前だけが残りました。)       
昭和4年(1929年)隣村の原村が福岡市と合併しました。
昭和5年(1930年)物価の安定を目的とした市の公設市場(現在のバッティングセンター)が因幡町(今の天神)に次いで開設された。市が直接販売したのは白米だけだったようです。他の食品、日用品は指定業者が入居し、市民の消費生活に大きく貢献しました。昭和7年の利用状況は1日入場者1,167人、売り上げ297円(現約90万円)と非常に賑わったそうです。






昭和6年(1931年)リンドバーク夫妻、西南学院に来訪しました。
同年   西新町耕地整理で下田町・二百石町・西ケ崎等新町名が誕生しました。
昭和8年(1933年)隣村である姪浜村が福岡市と合併しました。
昭和10年(1935年)市道早良口有田線(原通りの前身)が整備され、バス路線(北筑バス)が藤崎から早良口を経由して通るようになった。
昭和11年 (1936年)市道脇山口荒江線(早良街道の前身)が整備されました。(この時の脇山口は現西新2丁目の交差点です)
昭和12年(1937年)日中戦争勃発 
同年   西新尋常高等小学校、高等科廃止し城西高等小学校(現城西中学校)が新設され、進学する生徒はこちらまで通いました。
同年   ヘレンケラー女史、西南学院に来訪した。

同年   土地区画整理で曙13丁目・昭代が誕生しました
同年   旧保健所法が制定され、福岡市立西新病院が早良公会堂の建物(現西新5丁目)を活用して開業した。事後、下田池(祖原157埋め立てて移設し、昭和58年に福岡市医師会成人病センターに譲渡し、更に平成30年に福岡大学に譲渡され福岡大学付属西新病院となりました。
昭和15年(1940年)   藤崎(現百道中学校の位置))に福岡市立第一工業学校(現福岡市立博多工業高校の前身)が 開校しました.
昭和16年(1941年)太平洋戦争勃発、






昭和17(1942) 西日本鉄道が発足し本社を旧小倉市砂津から西新(現ドン・キホーテ付近)に移転、昭和20年に大名(現グランドホテル)に移転しました。


昭和18年(1943年)西福岡消防署が旧西新町2丁目244に発足、職員25名消防車2台で旧西福岡警察署の所轄管内を担当しました。

昭和20(1945) 619 福岡大空襲 東西は御笠川から樋井川までの間に市街地を焼き尽くす程の空襲がありました。西新町では新地、片原町、藤崎の一部で被害がありました。



VOL.5(昭和期(戦後))

に続く