西新町風土記VOL.3

2020年1月2日木曜日

西新の歴史

Vol.3

明治期

明治元年(1868年)明治維新により幕藩体制から中央集権化する。
明治4年(1871年)廃藩置県が実施され、藩校も廃止されました。
明治5年(1872年)徴兵制度が発布されました。
明治6年(1873年)前年に学制が発布され新地・新屋敷・中東に百道・紅葉・西新の3校(義務教育8年)を設立しました。校舎が竹槍騒動で破壊されたが、すぐに修復されました。
*竹槍騒動(筑前竹槍一揆) 明治6年筑前一帯の大干魃と米価暴騰に不満を抱いた筑前嘉麻郡高倉村の農民が暴動を起こした。年貢3カ年免除、旧藩の復活、学校・徴兵・地券の廃止などを要求。一揆の波は筑前一帯に拡大しました。6月21日、旧舞鶴城内の福岡県庁に乱入し、県は士族を組織した鎮撫隊を編成し、鎮圧しました。
明治7年(1874年)新地・新屋敷中東の3校を合併して新屋敷(中西)の紅葉小学校としました。紅葉小学校は麁原村と西新町の出資で作られました。街道を境とし南側(現西新1丁目の南側半分)は鳥飼村西ヶ崎でした。当時、この鳥飼村西ヶ崎の児童は、明治期は鳥飼小学校、大正期は福岡女子師範学校付属小学校に通いました
明治9年(1876年)福岡県と小倉県を統合し福岡県と称号しました。紅葉小学校を西新小学校と改め校舎を増築しました
明治10年(1877年)西南戦争(不平武士の反乱)に徴兵された人もいました。
明治13年(1880年)4 西新町学生団同心会が設立された。


明治14(1881) 公設消防組織の一つとして民間消防組織ができた。西新町では明治元年に60戸、明治4年には15戸、明治13年には20戸が火事で焼失しました。(当時の消防法被は森田宗右衛門家の豊田佐吉式機織機で作られていました)

明治17年(1884年)西新郵便局が新地に開設された。
同年   対馬小路にあった閑松院が西新町新地(西光寺跡地)に移転して来ました。


明治18年(1885年)筑陽社の分社が新地に設立された。

*筑陽社 士族の起業(養蚕・製糸業)のための資金を融通する組織
明治19年(1886年)学制が 変更され、西新小学校は就業年数4年の西新尋常小学校となり、更に就業年数4年の西新高等小学校が開設された。(現在の早良郵便局の位置)
同年  早良郡の産婆組合の一つが西新に置かれた。
明治19年の西新町警察署の管轄区域
(姪浜巡査派出所管内 筑前国早良郡ノ内姪浜村・下山門村・十六丁村を除く)
筑前国早良郡ノ内 残島村・橋本村・野方村・戸切村・石丸村・福重村・有田村・小田部村・庄村・重富村・西油山村・野芥村・干隈村・西脇村・田村・免村・次郎丸村・原村・飯倉村・梅林村・板屋村・椎原村・脇山村・内野村・小笠木村・西村・石釜村・四ケ村・西入部村・金武村・東入部村・曲渕村・飯盛村・吉武村・羽根戸村・鳥飼村・谷村・田島村・荒江村・麁原村・上長尾村・下長尾村・片江村・堤村・桧原村・柏原村・東油山村・七隈村・西新町
同年  西新町警察署が中西に開所されました。警察署は大正5年(1916年)に中東(現西新交番位置)に、昭和47年(1972年)に西警察署として百道1丁目に移設しました。


明治20年(1887年)福岡煉瓦会社が創設され、レンガ・土管を製造した。以前、レンガは京阪より取り寄せていました。此の工場で製造されたレンガ・土管は、博多・福岡の建物の建造、軍港、鉄道の敷設工事に使われ、台湾にまで出荷されていました。

同年  西新尋常小学校に高等科が附設され、西新尋常高等小学校となり、校舎が増築された。(明治32年の児童数202名、就学率94%。大正9年の児童数1046名、就学率98.5%)
明治22年(1889年)福岡区と博多区を併せて「福岡市」と命名しました。初代福岡市長に西新の山中立木氏がなりました。翌明治23年市議会で名前動議があり再度「福岡市」に決定しました。駅名は「博多」となりました。
明治22 西新町と麁原村が合併し、福岡県大字西新町として町政が敷かれました。中西に西新町役場がおかれました。中西が行政の中心でした。中西には江戸期に日用(ひよう)支配という短期の業紹介所がありました。

明治23年(1890年)福岡で赤痢(福岡市史)が大流行し福岡市内で150名が死亡し、西新町でも約3000人の町民の2割が罹患しました。
明治24年(1891年)西新町炭鉱が上野山(現西新5丁目12付近)にて採炭したが採炭量が少なく数年で閉山しました。
明治29(1896)郡制が施行され、福岡県早良郡西新町が誕生しました。郡役所は当初姪浜に開所し、明治31年に新地(現オレンジ通り公園)移設され、郡制は大正12年に廃止になりました。
明治33年(1900年)修猷館中学(明治22年開学)が大名から西新町新屋敷に移転してきました。
*修猷館中学は当初は明治18年に福岡県立英語専修修猷館として大名に開校しました。
修猷館中学の学生さんの中には樋井川上流から船で通学するする人もいた。[福岡中学(現福岡高校の前身)は大正6年(1917年)に創立、筑紫中学(筑紫丘高校の前身)は昭和2年創立]


同年   十七銀行(福岡銀行の前身)西新町出張所が開所しました。






上記明治34年・35年ころの図は、全て西新小学校100周年記念誌

明治40(1907) 小学校の義務教育が6年となる。(高等科の教育が2年となるのは明治42年)


明治42年(1909年)麁原(そはら)炭鉱(福岡炭鉱第一坑西坑)が開かれた。(現昭代1丁目付近)



明治43年(1910年)北筑軌道が加布里~今川間に開通しました。 西新尋常高等小学校と修猷館中学の間を通り、子供たちは小学校の裏門から見学したそうです

明治44年(1911年)西新尋常高等小学校が中東(現西南学院の南側)へ移設しました。



VOL.4に続く