Vol.12(西新と近郊の歴史)
西新と近郊の歴史 その1
頭山満手植えの大楠と筒井條之介君記念碑
西新公民館の南隣にある西新緑地に大きな楠とその由来碑がある。西新4丁目1番にあったが昭和54年西新再開発事業に伴い現在地に移された。筒井條之介は頭山満の長兄の子息で新聞記者から西新町議会議員になり福岡市との合併に尽力した。
外国人教師宿舎3号棟
西新2丁目16にある。九州大学の国際学術研究の推進及び社会連携の促進を図り、教育研究活動の促進を図ることを目的として建てられた九州大学国際交流研究プラザの敷地内ある。
大正13年(1924)に平屋建て和風家屋三棟と二階建て洋風家屋二棟が、旧福岡高等学校(六本松にあった大学教養学部の前身)の日本人教職員および外国人教師のための宿舎として建設されました。平成13年復された外国人教師宿舎3号棟は、福岡市の有形文化財として指定を受け、昭和初期の文化を継承する建築物として保存されています。
松山稲荷
西新2丁目21番38号に鎮座する小さな神社である。元々は、個人宅の庭にあったものを改築のため、この地に移設したという。この移設にあたり、京都の伏見稲荷で神事を行ったといいます。鎌倉時代はこの地は海中であり、直接この地にあったものではありません。
西南学院大学博物館(福岡市指定有形文化財)
西新2丁目西南学院敷地内にある。外周と内壁はイギリス積(正確にはオランダ積)の赤レンガ作りです。屋内は西南学院大学博物館となっています。日本におけるキリスト教史、昔の西新町の絵図等があります。平日17:00まで無料で公開されています。
杉山稲荷
西新2丁目10番西新パレスの北側に鎮座するお稲荷さんである。明治30年頃ここの根元の穴に大きな狐が住みついていましたが片原町(西新1丁目)の人が青松葉でいぶし殺してしまった。その後、殺した人たちにたたりがあったので、片原町の町内有志で祠をつくり祀った。
これが杉山稲荷の発端との説もある。明治35年を思い出して書かれた手記にキツネ・タヌキ多しと書かれている。また片原町の氏神様として獅子を担いでいた。
史跡元寇防塁と元寇神社
西新7丁目4番にある。大正9年に西新尋常高等小学校の高等科の生徒全員で教育勅語下賜30年記念事事業として防塁の一部を発掘し、現在の史跡元寇防塁の起源をつくりました。元寇防塁は大正時代に九州大学中山先生が名付け、その名称が定着した。西南大学1号館には二重構造になった防塁(自由に見学可能)が復元されている。文永の役(1274年)の時は元軍の上陸阻止する障害は設けていないため、簡単に元軍に上陸を許した。しかし、弘安の役時(1281年)は海岸線(西新小学校の南端の南端と推定)から50mの位置に防塁が20kmにわたり築かれており、元軍は上陸ができなかった。この防塁の構築は67年間にも及んでいる。ここでは大正8年から毎年10月20日に元寇受難者招魂祭が行われ、昭和6年に小祠を建て(現在は建て替わった)毎年元寇祭を開催し、現在も行われている。
元寇戦跡碑
祖原山の頂上には元寇戦跡の碑がある。文永の役の際、元軍がここに陣を敷いた。日本軍は赤坂山に構え、眼下の鳥飼干潟での壮絶な戦いがあったことをうかがうことができる。
西新電車通り商店街の変遷
西新地区第一種市街地再開発事業の中核施設として岩田屋が建設され、福岡市地下鉄空港線西新駅開業の1ヶ月前となる1981年(昭和56年)6月26日に「西新エルモール岩田屋」として開業。岩田屋の経営不振により西新岩田屋が2003年に閉店すると、それまで親しまれてきた「岩田屋」に変わる新たな通称が必要となり、一般公募することとなった。その結果、「プラリと行ける場所」からの造語である「プラリバ」に決定し、2003年4月25日に「西新エルモールプラリバ」として再開業しました。営業時間は、10時 - 20時(B1Fのサニーは7時 - 24時)。 2015年7月31日をもって閉店しましたが、2019年7月新規商業施設が「新プラリバ」として開業しました。
焼却場跡(早良市民プール)
西新と荒江の中間にある。昭和49年にオープンし、福岡の市民プールの中では一番歴史がある。以前は大正15年~昭和35年まで塵埃焼却場(現西部清掃工場として西区生の松原に移転)でした。この塵埃焼却場が出来る前は塩竃神社がありました。この祠(ほこら)は近所に移動させて昭和40年頃まで夏祭り等を催していましたが、現在は宮城県の総本社に合祀されました。また、明治通りの西新1丁目交差点から南に下ってプールまでの道路は塵埃焼却場への道として大正初期に整備されました。南側の道路からは祖原山を望むことができ、西側に赤坂山を思い浮かべれば、この地で元寇時の鳥飼潟の戦いがあったことがロマンとして感じられます。
薬師堂
祖原8番にある。毎年、7月には夏大祭(お薬師様)の祈願法要が堂主千眼寺住職により行われている。戦前は縁日の店も出て、獅子一対をかつぎ地域を練り歩いていました。戦後、途絶えていましたが平成28年(2016年)に地元住民の強い意志により復活しました。続風土記拾遺には「薬師堂は上の畑にあり昔の寺跡なりという。依りて考えうるに瑞雲山善龍寺往時此処にありたること疑いなく浄徳、これを唐人町に移すにあたり、真宗に必要な阿弥陀仏を取りて薬師物は依然麁原(そはら)にありて、顕乗寺の守るところとなりしが、いつ頃よりか退廃におよびけん。村民千眼寺と謀りて、修飾を加え担任を依託したるが如し。」とある。
唐人町の善龍寺の旧記には「善龍寺は大永元年(1521年)玄宝禅師の建立」とある。浄徳とは肥後の城氏浄徳のことであり、荒津の北辺りに一院を建てようとしたが、拠り所となるものがなく、麁原の古院に阿弥陀仏の像があることを知り仏像と寺名をもらい受けて唐人町に移したという。祖原の薬師堂は文久2年(1862年)の創建と伝えられる。明治2年(1869年)中八代の僧桂山、村民と協り仏像を修飾し、堂宇を建立する。昭和7年西川虎次郎他80名位の有志により改築され、記念の碑がのこる。
中西宮地嶽神社と高取焼窯跡
西新5丁目8番にある。下の写真が宮地嶽神社、鳥居のおくにある祠が浦賀神社。宮地嶽神社は神功皇后が海の安全を願ったものです。高取焼窯跡の標柱も設置されている。百道砂丘のこの丘上から博多湾での航行の安全を祈願したものと推察します。この丘の南側に西新町炭鉱が発掘されましたが採炭量は少なかったとのことでした。
顕乗寺
祖原26の4にあるこの寺は浄土宗本願寺派に属し松林山と号している。延宝元年(1673年)に建立され現在地には昭和5年に麁原字中尾より移転したという。開基は釈法円で六代性空までは東本願寺派だったが七代性合の時、西本願寺派に変わった。境内には西光寺歴代住職の墓及び飢人地蔵尊がある。(西新町の歴史(1)歴史物語散歩)
大乗山法音寺福岡支院
城西2丁目11にあります名古屋の大乗山法音寺の別院という現本堂は平成元年8月建立。
創価学会福岡平和会館
西新7丁目15にあります。昭和33年(1958年)創価学会九州本部として建てられた。昭和56年平和・文化・教育の展示や講演会を開催できるように九州池田平和会館として再オープンした。現在は平成19年に福岡平和会館となった。
千眼寺
百道1丁目3番明治通り沿いにある。元禄11年(1698年)創建です。西新の歴史を辿(たど)ると東は紅葉八幡宮、西では千眼寺に関わりが出てくる。山門には「大悲山」の額が掲げられている。本堂と納骨堂の間を進むと左手に開山天祐禅師をはじめ歴代住職の墓が整然と並ぶ。開山の天祐和尚は筑紫郡武蔵の天拝山城主帆足弾正忠勝の三男で黒田家に仕官している。元禄10年(1697年)黒田綱政の内意で寺院建立を為すようにとの使者を受け、寺を建立した。寺院の建物は、黄檗(おうばく)宗の清規により明朝様式で内部一面に四角瓦を敷き詰め中国流の唐幡を以て飾る。本尊釈迦無尼仏、その左右に関帝の聖像、達磨大使師像をまつっている。しかしながら、寺号千眼寺は正徳3年(1713年)に廃寺の号を取ってその号としました。開山以来、筑前国の西の祈願所として1月1日より3日間の祈念修法のほか、江戸時代享保期に早良郡に悪病が流行し死者がおびただしく出たので、早良郡中の庄屋が集まり悪病退散の大施餓鬼法令を設け7月23日より大施餓鬼修法を行っている。千眼寺の危機は、官寺であったがために、檀家が少なく、明治維新により藩の扶持米を得られなくなった。しかし広大な畑を有していたため、しのぐことができた。
この間、伊佐・亀井家等有力な檀家ができたが、広大な畑は戦後の農地改革で失うことになった。
この戦後の危機を乗り越え現在の千眼寺がある。
千眼寺の山門の外側西北の隅に小さな地蔵堂がある。延命地蔵である。地元では「いぼ取り地蔵」と親しまれている。いつ建てられたかは詳らかではない。
紅葉八幡宮
高取1丁目26番紅葉山に鎮座する西新の氏神様です。大正2年に西新町中東からここに遷宮された。祭神は神功皇后・応神天皇・玉依姫・大国主命・事代主命です。
昔の中東にあった鳥居の柱と天板
平成12年に祖霊殿を建立、多くの信徒を抱えるようになりました。また平成28年には社務所を新しく建てました。
また紅葉八幡宮の南参道(階段)には、埴安神社が明治12年麁原山より遷し祀られていて、その鳥居が残るが、埴安神社は紅葉八幡宮の遷宮によりここに合祀された。この埴安神社の遷宮に尽力した人の中に十郎川の由来となった河崎十郎の名がある。
お正月の行事にはジャンボ門松が登場、夏祭りには「茅の輪くぐり」がある。
筑紫舞は、その起源は古く、『続日本紀』天平3年(731年)の記事にその名を見ることができる。以来、神舞、くぐつ舞など、何種類かに分類される二百以上の舞が、すべて口伝によって伝承されてきたと云われる。現在八幡系の舞が紅葉八幡宮で行われています。
宇賀稲荷神社
紅葉八幡宮境内の東側に祀られている。宇賀神社と稲荷神社の二社が合祀されたもので大正2年八幡宮遷宮時、紅葉山山頂にあったのをこの地に遷したという。宇賀神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)「稲荷社は本村(麁原(そはら)村)の西方、東大辻山(紅葉山)の上にあり皿山の産神なり、昔は小社なりしか元文の頃、西辻山(紅葉山の西側にあった小山)より今の地に遷し」と続風土記拾遺にある。
利生院
高取1丁目26-59にある。紅葉八幡宮の北側にあり。郷土史編纂資料には「偶国君綱政、この地御茶屋に休憩ありしに腹痛に悩まれ医師又は祈祷をなす者を求められる。ある人ここの修験者を薦め、祈らせしめたるに病、怱ち癒ることを得り、依りてその行力に感ぜられ、以降院に名づくるに利生の二字をもってせよとの命あり、山伏、ついに居をここに移し利生院と称すという」平成28年(2016年)社会福祉事業所「利生院」を誕生させた。利生院の土地と建物を地域貢献や社会貢献に使って欲しい」という故人(堂守)の遺志が、ここに実現することとなりました。
埴安神社は昔は麁原村小字宮の脇にあったがしばしば遷宮され慶長年間に唐山に移された。その場所は、元寇麁原戦跡記念碑の北20m位にある五穀社(裏面に明治12年とある)が建っているところと伝えられている。この社も明治12年(1879年)に大辻山(紅葉山)に移り、紅葉八幡の遷宮に合わせ合祀された。
猿田彦神社
藤崎1丁目1にあります。毎年初めの庚申の日である初庚申大祭には多く
の方々が参拝に訪れる猿田彦神社ですが、授与品の猿面を玄関に掛けるこ
とで魔が“去る”と伝えられています。猿が外から入って来ようとする魔に
睨みを利かせているため、1年間を安寧に過ごすことができるのです。ま
た初庚申が混み合うため、近年では年の最後の終(しまい)庚申の日に猿
面を返納し、新しい面を受けて新年を迎える方々も増えてきました。猿は
木から落ちないため、受験生の合格祈願として猿面を受けられる方々く、
猿田彦の神徳が広がっているようです。
一里塚と飛び石橋
江戸時代、福岡城の上之橋御門を起点に東西南北へ一里の場所に一里塚が
設置されました。西は唐津街道沿いで、現在の藤崎に設置され、江戸時代
に著された筑前名所図会にも描かれています。現在の碑(福田眼科横)は
これを基に再現されたものです。以前は唐津街道沿いにありましたが、現
在は脇道に移設されています。すぐ近くには安全な旅にご利益のある猿田
彦神社があり、人々は唐津方面へと向かう旅の安全を祈願した後、この一
里塚を通っていたのかもしれません。また、一里塚から唐津街道を西へ数
分進むと飛石橋がありますが、江戸時代には黒田藩の軍事戦略上、架橋の
許しがなかなか下りなかったため、川に飛び石を置いて渡っていたそうで
す。言い伝えによると「旧藩時代は河床に木製の梯子土台を設けその上に
長さ1.5m幅60㎝位の角石を敷いて、飛渡り通行していた。だから潮が満
と膝を没し、雨水が張ると股まで浸っていた。」その位置は、その名残を
名前とどめている飛石橋の下流20m位の地点です。
伊佐住宅(市指定有形文化財)
伊佐家は、明治 14(1881)年に伊佐油屋本家から分家し、屋号を油屋と
称して戦前まで米穀 と肥料を、その後は建材の販売や煉瓦製造、ラムネ製
造販売など色々な家業を営んできた。
高取焼未楽窯
高取1丁目26にある。筑前国主黒田水、長政親子が朝鮮の役の際、朝鮮の韋土と云う所に「やきもの」を作る八山と云う良工を見出されて筑前に連れ帰られ慶長十一年福岡県鞍手郡鷹取山の古城の麓に初めて製陶所を設け開窯させられたのが高取焼の創始であります。之を高取永満寺窯と称し以後五十石の禄を賜り、士分に列し御用窯として藩主に被護されて来ました。現在の西新町の高取焼は享保二年藩主の命に依り朝倉郡小石原より移窯しこの間盛衰ありましたが高取焼の技法は連綿として継承せられ、現在は十五代亀井味楽に引き継がれています。
西新墓地
供養塔は平成20年にこの「西新1号墓地、」にお墓をお持ちの有志の
方々、何とかこの墓地を気持ちよくお参りできるようにしたいと「百道
墓地管理会」を立ち上げました。どうしても祭祈者がわからない無縁と思
われる方々の墓をこの供養塔のまわりに集め、管理会で供養することとし
ました。藤崎百道地蔵は福岡刑務所が藤崎にあった頃勤務していた木宮
進、中村三郎の両氏が処刑者(現在の早良署付近に処刑場があった。)の
霊を慰め又犯罪の犠牲になった人々の冥福を祈るため発起人となり司法官
庁保護司会、更生保護女性会、百道自治連合会、千眼寺などの協力により
建立された。また、この墓地には牧伯望碑がある。
西南学院パブテスト協会
西新7丁目にある。プロテスタントのパブテスト派に属する協会で、今
年で96年を迎える古い教会です。
カトリック西新教会
城西3丁目‐14にある。 1953年に創立されました。 幼稚園が併設されており、施設の最上階に聖堂があります。
Vol.13(西新と近郊の歴史その2 2020年10月中旬掲載予定に続く)