西新町風土記VOL.2

2019年12月12日木曜日

西新の歴史

Vol.2

江戸期 西新町の成り立ち

慶長5年(1600年) 黒田氏は中津から筑前国に国替えとなり、福浜に福岡城を築きます。
慶長5年(1600年)~慶長14年(1609年)黒田長政公は、樋井川の大堀(草香江)に流れ込んでいた水路を、別府付近(痕跡は判らない)から百道浜に変更し直接博多湾に流入させました。当初、この川を田島川といい、架かる橋を「うてミ橋」とよびました。河川が西側に曲げられたため、鳥飼村が分断されました。(現在、中央区鳥飼、城南区鳥飼はその名残としています。)この「田島川」を新川(七隈川)が出来て樋井川との合流点から下流を「今川」と呼び、「うてミ橋」を「今川橋」と呼ぶようになりました。



長政公は室見川を西の防御線とし室見川には橋を架けませんでした。石を並べ、飛び石橋としました。また、樋井川の東にお寺(金龍寺・浄満寺)を配置し、樋井川を西の最終防御線としました。当時のお寺は、敷地が広く部隊の駐屯、兵站の集積等軍事拠点でした。
 また、長政公は樋井川の整備のため、下図の通り塩焼浜(現鳥飼6丁目・城西2丁目・曙2丁目一帯)を埋め立てました。



新川は(七隈川)は塩焼浜の埋め立て地を開墾するため1746年頃造られました。1748年から旧塩焼浜(現鳥飼6丁目・城西2丁目・曙2丁目一帯)の開墾が始まりました。
元和4(1619年)長政公は百道松原を誕生させました。千代の松原、生の松原を習い大松原とすべく姪浜までの町衆の各家に松の木1本を寄贈させ百道松原をつくりました。
寛文3年(1663年)小字西新町が作られました。(当初、西新町は野芥村道(現菊池道)の東側は鳥飼村、西側は原村に属していました。)

寛文6年(1666年)三代藩主黒田光之は百道浜(西新2丁目10西新パレス付近)に紅葉八幡宮と西光寺、秋葉神社(現在紅葉八幡に合祀)を橋本村より遷宮しました。


* 西光寺は、明治の神仏分離令でなくなります。明治期の地図にある西光寺と同位置にあるお寺は閑松院(対馬小路にあった廃寺)を建立したものです。閑松院は、紅葉八幡宮の皿山遷宮と同時に別寺となり今宿の青木に移設しました。

* 江戸期までのお寺には大きく藩の安寧を祈禱する官寺・神宮寺・菩提寺等のお寺があり、西新には官寺が藤崎に千眼寺、神社の管理をする神宮寺が百道原に西光寺、祖先を弔う菩提寺が麁原に顕乗寺がありました。
* 官寺・神宮寺は藩の扶持米で管理され、菩提寺は檀家のお布施・寄付等で管理されていました。
* 神宮寺とは平安期から本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が本格的に唱えられ、神様と仏様を一体化するものです。現在の祇園山笠において承天寺と合わせて東長寺にも舁き山が挨拶するのは、東長寺の末寺が櫛田神社の神宮寺だったからです。
延宝元年(1673年)麁原村の菩提寺として顕乗寺が麁原字中尾(麁原山南西)に建立されました。(昭和5年現在地に移転する)。 この顕乗寺には西光寺の歴代和尚の墓があります。
延宝2年(1674年)西新町橋の掛け替え(博多津要録巻之三西新町橋夫事 「西新―作り始めて350年―」)
元禄7年(1685年)福岡藩、武士の知行に苦心、百道松原に武士の宅地(新屋敷)を開発する。

新屋敷」には鉄砲の火縄の材料にもなる「ちん竹」の生け垣「ちんちく塀」が作られ、ここに暮らす武士たちは「ちんちく殿(どん)」と呼ばれた。近年まで西新にも「ちんちく塀」が残っていた。
元禄11年(1689年)曇華庵(千眼寺)が藤崎(現百道1丁目)に開山された。

*猿田彦神社の後ろには「庚申塔」がある。唐津街道が主要な道路として整備されました
元禄13年(1700年) 藤崎において、722日に6、000人を寄せて新田開発が行われました。

宝永5(1708)上野山(東皿山(現西新5丁目浦賀神社付近))に高取八藏・五十嵐次左衛門、窯(高取焼)を開く。

正徳5年(1715年)西新町瓶焼六郎次家より出火し町屋数件と藩士宅合わせ十数件焼失しました。

享保元年(1716)西皿山(現高取1丁目)に陶工数人をもって民用のすり鉢等の窯を開きました。奉行の統制下にありました。


享保5年(1720年)福岡藩の支藩東蓮寺藩(直方藩)が廃藩となり、藩士は福岡へ、百道松原にも移住しました。


享保17年(1732年)享保の大飢饉が発生、顕乗寺(麁原)圓徳寺(地行)正光寺(唐人町)に地蔵尊が建てられました。




元文3年(1736年)麁原村に「駆け付け火消制度」が設けられました。

元文4年(1739年)西新町が「西新町村」として麁原村・鳥飼村から独立しました。
西新町と西新町村が出てきますが、寛文3年(1663年)当初、西新町は地積的には鳥飼村と麁原村にまたがっていました。また米が作付されず村ではなく町と呼ばれ、元文4年(1739年)に年貢徴収のため大字西新町村となりました。




大字西新町村となるきっかけは、新西町〔シンニシチョウ(現中西辺り)〕に日用支配(短期の職業紹介所)のほか商家・商人が多く住むようになり、また浜からは穀物、焼き物の積出が行われ、町としての形成がなされたものと思料します。 
寛保元年(1741年)東山窯が大破し、西皿山に新大窯が造られました。
延享2年(1745年)東山では御用製品の製作の内「造形・成形・釉薬作業」、西皿山で「焼きの工程」(西皿山焼)が行われました。「高取歴代記録」(藤本氏 調べ)
延享5年(1748年)西新町汐入りの開地(開墾)願いが町人から出されました。藩は年貢と江戸苦労銀上納を条件に認めました。
同年   旧塩焼浜(現鳥飼4567丁目、城西23丁目、曙1・2丁目)の開墾が始まりました。この開墾の2年前に新川(七隈川)の整備がなされました。
安永7年(1778年) 片原町両側(現西新1丁目)で火災、40余件が焼失しました。
天明4年(1784年)藩校 東学問所(修猷館 竹田定良 朱子学 大名 )および西学問所(甘棠館 亀井南明 徂徠学 唐人町)が開学しますが、甘棠館は寛政10年(1798年)、近くから出た大火で、類焼してしまいました。当時、幕府より学問統制を目指した「寛政異学の禁」(寛政21790年)の政策が出されており、朱子学が本流でした。そこで、西学問所は残念ながら再建されませんでした。
寛政13年(1801年)西光寺(紅葉八幡宮の別当)の願いにより八幡宮の山(西光寺の東側と南側に地を開墾、新地となりました。(新地は昭和6年まで小字としてありました)
文化元年(1804年)大雨により今川橋が落ちる。鳥飼村及び西新町辺大洪水が発生しました。
文化2年(1805年)上野での石炭採掘願いが出される。「文化3年(1806年)麁原村(上野山)炭鉱の穴に落ちて  亡くなった人がいた。石炭は、安政年間(1772年~1781年)には、麁原村 に石を販売する者あり」(西新小学校100年記念誌)とこの頃から存在は知られていました。
天保末年(1845年)西新町村に店売りが許可された。
*江戸期の商売は振り売り行商(天秤棒を担いで物を売る)が主流でした。
文久2年(1861年)薬師堂(現祖原821)の仏像を修飾し堂宇(仏堂)を再建した。

VOL.3に続く